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「悪い奴を懲らしめたい」という呪縛から解放される為に

2021年の締めくくりに、相応しいのか否かはわかりませんが、来年に持ち越したくないという気持ちがあり、今回はこのテーマでnoteを書いてみようと思います。

人それぞれに「許せない!」と思う基準があり、その沸点に触れた時に、他者に対して憤りを覚えるわけですが、その「許せない!」という自分の感情をどうにかする為の方法として、「許せない相手に痛い想いをさせる」という方法があります。

「バチが当たれば良い」とか、「捕まってしまえ!」とか、なんなら実際に「制裁だ!」とか言って殴っちゃう方法もあります。でも、殴っちゃうとこちらが捕まってしまうので、言葉によって責め立てたり、なじったりする事もありますね。

勿論私だって、そうゆう気持ちはあります。でも、ある時、気付いた事がありました。

それ、何の解決にもならない。

いや、解決の目的が「自分がスッキリする為」ってのなら、解決になるのかもしれないですけど、あんまりそれって大義名分じゃないです。自分勝手なので。

それよりかは、そういった事が世の中に今後起こらない様にするって事に注力した方が良いんじゃないかなって思います。

そんで、そうゆう時に昔見たテレビ番組で、どこの局なのかどんな番組なのかも忘れてしまったのだけど、こんな内容の番組を今でも思い出します。

それは海外のどっかの刑務所の実情で、普通ならば自由もない、苦痛ばかりの生活を強いられている刑務所なはずなのに、そこの刑務所では、とても自由で学べる環境があり、収容されている犯罪者の人々が笑顔で過ごすのです。

なぜなのかというと、刑務所が犯罪者に罰を与える場所ではなくて、二度と同じ様な犯罪を起こさない様に公正を促す場所であるという理念を徹底した結果だというのです。

「信じられない!悪い事をした人間が、何不自由なく自由に笑って過ごすなんて!」と思うのがもしかしたら普通なのかもしれません。でも、罰則を重くして、辛いおもいをさせて、思い知らせてやるってのは、前向きな社会のためには長続きしないものなんです。(罰則規定自体がある程度の犯罪の抑止力になるのは認めますが)

現にその刑務所で過ごした犯罪者たちは再犯率がすごく低いとか。

「自分の憤りを解消したい」という目的よりも「社会に理不尽な事をなくしたい」という目的で考えるのであれば、より公共の利益は後者であって、私は後者を支持したいなと思ったわけです。

それから、この記事の表題にある通り、「悪い事をした奴を懲らしめたい」というのは、自分自身への呪縛でもあると思えるのです。

その当時、なぜ私は、悪い奴を懲らしめる事でちょっと気持ちよくなれるのかを今一度考えてみました。ほらみろ、私は正しいのだ、という気持ちがあるのではないか、と。でも、私は正しいというのは、私の中で決めれば良いだけで、それを他者を使って証明しなくても本当は良いはずなのです。それは、どこかで私の正しさというものへの自信のなさが現れてるのではないかと思うのです。

逆に、正しい事に間違いがないという自信があるのであれば、なぜ、そんなに間違いなく正しい事をできない人がいるのか疑問に思いませんか?

そこで考えてみますが、その他人を使わなければ証明できない「正しさ」というのは、時に他人にとって迷惑ではないのか、と。これは行き過ぎた承認欲求にとても似ていて、私が常々疑問に感じている「誰かに私を幸せにしてもらおう」というとても身勝手なものではないかと思うのです。

悪い事を一方向しか見ていない、なぜその悪い事を起こしてしまったのかというのを全く考えないのでは社会は良くならないのです。

恐ろしいのは、子育てをする時にこの罪の押し付けを子どもにしてしまう事です。子どもは悪気がありません。子どもが悪い事をした時に、なぜその様な事をしたのかを考えずにお尻を叩く、廊下に立たせる、体罰を与える。これは今の世の中では絶対にダメです。

そんな事をしても、罪を与えた側は一瞬はスッキリするけど、何の解決にもならないので、また憤りを感じた時に同じ事を繰り返してしまうだけなのです。それよりも、その憤りの原因が本当はどこにあるのかを深く考えて、その解決のために自身ができる事をやればそんなに腹も立たないです。

「罪を憎んで人を憎まず」なんて言葉がありますが、実は罪を犯した人間を憎んでいると、いつか自分が苦しくなるよって考え方じゃないかと思うんです。

だから、是非この呪縛から解放されて、本当にお互いが尊重される世の中を作りませんか?というのが、私が2021年最後に思った皆様への提案です。

長文お読みくださりありがとうございました。来年も1人でも多くの幸せな人が増えます様に。

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