天才数学者ガロアの決闘場所
私は古地図を見るのが好きだ。古地図を片手に、今はなき古い街並みの幻影を探し求めるのが好きだ。
私が福岡に住んでいた頃にはもうすでになくなっていたが、福岡の地下鉄が開業するまで、博多と姪浜の間には筑肥線が地上を走っていた。その線路が通っていた場所を、昔の地図片手に歩いてみたことがある。線路が通っていた場所は、遊歩道になっていたり、少々不自然な形で道路になっていたり、いろいろな形で在りし日の姿が透けて見える。
京都という街は古地図ファンには多くの満足を与える街だ。どこどこに〇〇藩の屋敷があった。武市半平太の寓居はこの辺りだったと歩いてみると、ちゃんとそこには石碑が立っている。友人と一緒に、今はなき巨椋池の幻影を求めて歩き回ったこともあった。
2010年2月8日私は仕事でパリにいた。私はその年の暮れには『ガロア』という本を中公新書から出版する(現在は角川ソフィア文庫)ことになるのだが、それ以前から私は、二十歳で決闘に斃れた天才数学者ガロアの幻影を求めて、パリの街を彷徨い歩くことしばしばだった。
2010年2月8日のその日、私はパリの街を歩きながら、ふとガロアが収監されていた「サント・ペラジー刑務所」があった場所に行ってみたいと思った。そもそも、私はガロアが死の直前まで住んでいたベルナルダン街16番地はよく知っていた。サンジェルマン大通りから入って街路を通り抜けると、セーヌ河にぶつかり、左手にノートルダム大聖堂がある。ガロアが住んでいたベルナルダン街16番地には、とくにプレートなどは見つけられなかった(註:現在ではガロアの最後の棲家としてプレートが設営されている)が、いろいろと調査して(19世紀にはパリ大改造があったにも関わらず)その場所が紛れもなくガロアが住んでいた場所だという確信をもっていた。
しかし、まだまだ私の調査は十分とはいえず、まだサント・ペラジー刑務所のような、ガロアファンなら絶対に知っておくべき場所を押さえていないことを恥としなければならないと、急に思い立ったのだ。
セーヌ河沿いをオーステリッツ駅方面に歩き、植物園に向かってみた。どこで聞き知ったのか忘れてしまったが、ガロアが収監されたサント・ペラジー刑務所は、このすぐ近くにあったはずだと知っていた。しかし、正確な場所はわからない。調べればわかるはずだが、急に思い立って街を彷徨って見たかった。
植物園のインフォメーションで訊けば、もしかしたらわかるかも知れないと思い、入ってみる。出てきたのは若い女性で、英語はあまり上手くない。私はフランス語はまったくの片言なので、こういうときは困ってしまう。しばらくして中年の男が入ってきて、その人と話を始めた。
私のフランス名の発音も悪かった。私は最初「サン・ペラージ」と発音していたのだが、本当は「サント・ペラジー」だった。彼らは色々資料を当たったり、方々電話してくれたりしたが、結局わからない。
「なんでそんなことを調べているのだ?」と男は尋ねるので、手短かにガロアの話をする。その刑務所でガロアは論文の序文を書いているのだが、そこには代数学の将来について決定的な(と私には思える)ことが書かれている。構造主義的数学が100年以上も前に先取りされていた!と解釈してもおかしくないと私は思っている。(その序文は「ガロアの黙示録」として、拙著『ガロア』の中で全文を和訳して紹介した。)だから私はどうしても、その場所に立ってみたいのだ。
その中年の男は会話が好きな人だったようで、好奇心旺盛という感じである。そうこうしているうち、その彼が言う「セーヌ河沿いの屋台の本屋(ブキニスト)で、もしかしたらパリの古地図を売っているかもしれない。」なるほど!それは名案だ。
植物園を出て、屋台の本屋を10件ほども回る。観光客相手だけあって、彼らは話が上手だ。もう少しでサン・ミッシェルというところまで来たときに「1846年」と書かれた古地図が見つかった。しかし、これはオリジナルの古地図(複写ではない)なので値段が60ユーロと少々高い。
「サント・ペラジー刑務所を探している。それが描いてあったら買ってもいい。」「よし!」というわけで、店主と二人で探し始めた。しばらくして、なんと、それは見つかった!本屋のおじさんの勝ち誇った顔。「しかし、60は高いな。もう少し負けないか?」「50で売ろう。」というわけで50ユーロでその古地図を買った。
宿舎に帰ってきて、現在の地図と見比べる。サント・ペラジー刑務所のあったところは、モンジュ広場のすぐ隣りだということがわかった。エコール・ノルマルのすぐ近くだったので、今までにも何度となく通ったに違いない場所であった。
次の日、サント・ペラジー刑務所があったところに行ってみる。モンジュ広場のすぐ隣りなので、勝手知ったところだ。細い路地を抜けて最短ルートを歩く。写真撮影のアングルを探しながら、広場をあちこち歩いていると、後ろで私の名前を呼ぶ声がする。見るとCNRSの数学者であるV.M.氏だった。
「こんなところで何をしているのだ?」と訊くので、サント・ペラジー刑務所のことを話す。確かにその辺りの建物は20世紀以降の建造に見える、と彼は言う。正しい。調べてみると、その辺りの建物は1901年に一斉に完成している。サント・ペラジー刑務所が閉鎖されたのは1895年のことであったから、年代的にも符合する。
そこから丘を降りて数百メートルのところに、フォートリエ療養所があったはずだ。ガロアの恋愛事件があった場所である。古い住所ではルルサン通り86番地ということだが、通りの名前は今はブロカ通りに変わっている。もちろん番地も変わっているかもしれないが、とにかく86番地を目指す。(ちなみに「ブロカ」というのは人名。ブロカ野は脳の言語野の一つ。)
そこには広い敷地にいくつかの建物が建っており、中には古そうな建物もある。入り口を探して一回りすると、ポール・ロワイヤル大通りに面した門があり、しかも開いている。入ってみると、そこは陸軍の施設だった!よく入れたなぁと思って回りを見渡すと、中庭をうようよ歩いているのは軍服を着た連中で「何だこいつは?」という目で私を見ている。えらい所に来てしまった。ちょっと階級の高そうな軍人さんをつかまえて質問する:
軍人:19世紀?そんな昔のことは知らんよ(笑)
ブン:そりゃ、ごもっともで…
軍人:シャトー・ド・ヴァンサンヌまで行けば陸軍の歴史資料があるぞ、そこに行けば何かわかるかもよ(笑)
なるほど、そうしてみるか、というわけでスゴスゴ退散する。
しかし、シャトー・ド・ヴァンサンヌとは、やけに遠いぞ。地下鉄1番で東の果てまで行かなければならない。これは振り出しに戻って、もう一度資料を調べ直すかと考え、その日は仕事に戻った。
夜、宿舎で、改めてもっている資料を見直してみた。すると、以前ざっと見していた『Sur la mort d'Evariste Galois』という仏文の論文に、くわしく書いてあるではないか!現在の住所は「ブロカ通り94番地」であるとのこと。明日、もう一度行ってみることにした。
次の日、ブロカ通り94番地に行ってみる。そこは現在では集合住宅となっていて、療養所だった頃の面影はない。そこからアラゴ大通りを西進し、フォーブール・サン・ジャック通りを右折。ここを上がるとポール・ロワイヤル大通りの手前にコーシャン病院がある。決闘で負傷したガロアが運び込まれ、息をひきとった病院だ。
ガロアの幻影を求めてパリの街を彷徨い歩くのは楽しかった。それは確かに私にとって「数学を楽しむ」ことだった。数学という学問は本当にすごい。それはこんな楽しみまで私に分け与えてくれるのだ。
ガロア史跡巡りの最後のターゲットは「ガロアの決闘の行われた場所」だった。この場所の特定は、容易ではないだろう。何しろ、まだ誰もこの場所を特定できていない。わかっていることは「その場所はジョンティイー(Gentilly)地区グラシエール(Glacière)の沼の付近」ということだけだ。
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加藤文元の「数学する精神」
このマガジンのタイトルにある「数学する精神」は2007年に私が書いた中公新書のタイトルです。その由来は、マガジン内の記事「このマガジンの名…
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