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なぜリューヴィルはガロアを発掘したのか?

エヴァリスト・ガロア(1811〜1832)が見出した「代数方程式のガロア理論」は、1832年5月31日ガロアが前日の決闘で命を落として以降、14年間日の目をみることはなかったが、1846年にジョセフ・リューヴィル(1809〜1882)が自分が編集する雑誌「Journal de mathématiques pures et appliquées」にガロアの理論を紹介したことがきっかけとなり、ようやく数学的な整理・理解が深められるようになった。

このことは史実として紛れもない事実であるが、ではなぜリューヴィルは14年間も放っておかれた理論を突然引っ張り出してきたのか?そこには何か理由があったのか?

この問題については、2010年近辺のCaroline Ehrhardtの研究がほぼ決定的といってよい結論を提出している(1)(2)。それは当時フランス科学アカデミーで起こっていたリューヴィルとグイリエルモ・リブリ(1803〜1869)の論争がきっかけとなったというものだ。

(1) C. Ehrhardt "La naissance posthume d'Évariste Galois (1811-1832)", Revue de synthése: tome 131, 6e série, nº 4, 2010, 543-568
(2) C. Ehrhardt "A quarrel between Joseph Liouville and Guillaume Libri at the french academy of science in the middle of the nineteenth century, Historia Mathematica 38 (2011) 389-414

以下では、この2篇の論文をもとに、ガロア理論の本格的な発展史の始まりと言ってよいリューヴィルによる発表が、どのような経緯で行われたのか考えてみたいと思う。

リューヴィルについてはよく知られている。若い頃からその数学の才能で知られ、30歳の若さでアカデミー会員となった。複素関数論のリューヴィルの定理は、数学・物理を専攻する大学生は習うだろう。また有理数の列で非常によく近似できる数(リューヴィル数)は超越数であることを示し、超越数が実際存在していることを明らかにした。

他方のリブリについては、今ではあまり知る人はいないだろう。彼はイタリア人であったが政治的な理由で1833年にフランス市民権を得た。数学者・物理学者として有名なアラゴの知己を得たことや、若い頃の数学的仕事が評価されたことから、1835年にアカデミー会員に推挙された。

リューヴィルとリブリは同年代でフランス数学界で活躍する若手のホープと見なされていたかもしれない。しかし、彼らの間の確執はリューヴィルがアカデミー会員となる以前の1837年あたりから始まっていた。まず、リューヴィルは、リブリが自分の業績だとしている結果が、すでにダランベールがラグランジュに宛てた手紙の中で証明しているものであることを示し、しかもリブリは「数学史に博識である」ことからこれを十分知っていた可能性があることを暴露した。

まだアカデミシャンではなかった20代の若い数学者が、アカデミシャンの剽窃を暴露するというのは、おそらく随分思い切ったことだったろうと思われるが、この事件でも、そしてその後のいくつかの論争でも、基本的にはリブリにはあまりサポーターはいなかったようだ。リブリの数学的な力量を疑う人は多かったし、彼がアカデミーの中で発言権を次第に獲得するのをよく思わない人は多かった。

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