エモいが塗りつぶす

「ことばとは何か」という文章が教科書に載っていた。

聖書の考え方は"言葉"とは元から存在するモノにラベルを付けるような考え方で、
ソシュールの言語観は"言葉"とは、人間がモノをモノとして認識するためにある定義の幅の名前。
内容に関してはそんな解釈をした。

「悲しい」と「寂しい」
そんなあやふやな感情に幅を決め、言葉として名前を付け、それぞれ分けているから言語として共通認識が使えている。
そんなことを考えた。

そして「エモい」という言葉を使いたくない理由に気付いた。

エモいの定義やら何やらを言う気はない。
ただ、感情をエモいという言葉で包括するのに勿体なさや、不親切を感じる。ということを言いたい。

言葉は伝える為にあると思っている。
その相手が自分か周りかなどはあるが、言葉はコミュニケーションの道具として存在しているであろう。

にも関わらず"エモい"という包括力が異様にある言葉でまとめてしまうと、そこに存在したはずの様々な感情達が一言で済まされ、エモいという言葉以上の感情が消える。
そして、伝えようと思った気持ちも"エモい"という無限の解釈がある言葉に消えてしまうのだ。

先程も書いたが、私は何かを伝えるために言葉があると考えている。
だから、エモいという言葉はコミュニケーションに適していないと思う。

芸術的に見れば"エモい"は素晴らしい言葉だ。
言葉の持つ幅が大きい分、受け取り方に差が生まれるだろう。
わざわざ幅を狭く言語化しない美しさもあると感じることはよくある。

相も変わらず伝えたいことを伝える文章は書けない。
とてもエモい文章が出来上がってしまった。

語彙力をつけたいと思う。

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