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カール・ダイセロス著:『「こころ」はどうやって壊れるのか ~最新「光遺伝学」と人間の脳の物語』

 本書は、光遺伝学の開発者として神経科学領域で知らぬ者はいない、カール・ダイセロス氏の単行本「Projections: A story of human emotion」の日本語訳である。
 この本を読んで一番驚くのは、いつも彼の論文を読んでいる神経科学者ではないだろうか? もちろん光遺伝学(Optogenetics)の話も随所に出てくるが、内容の半分以上を占めているのは、精神科医としての彼だからだ。光遺伝学の開発者として、メジャー誌に次々と論文を発表し、多くの共同研究をこなしている超多忙の中でも、週一回の臨床を欠かさず行い、特に難治性うつ病の患者を中心に診察している、と雑談の中で聞いたことはあったものの、これほどまでに精神科医としてのアイデンティティーを大事にしているとは筆者も想像していなかった。
 元々脳外科を志していた彼が、精神科病棟で統合失調感情障害の患者さんと出会い、その瞬間、彼の頭の中で科学と芸術が一つになり、精神科への道へと進むことになったといった経緯や、シングルファザーとして子育てをしながらの当直の激務、最近のオンライン診療の状況、米国の非自発入院システムのあり方など、現役精神科医としてのさまざまな思いが綴られていて、興味深かったが、このニューロサイエンスの大スターがこんなに普通な精神科医でよいのか?という違和感もあった。
 しかし、後半では、神経科学で博士号をとった後に医学生となった頃には、「頭が現実離れして」いて、「反抗的で医療の原則や作法を受け入れなかった」ことや、彼の研究実績と全く関係なく医学生として値踏みされたことへの思い、そして研修医となってからは、次第に自分が「0か1かではない複雑さが許容される文化の一部」になったものの、興味深い患者さんに接した時に、好奇心をそそられ、やりがいがあるという心地よい感覚を覚えたことに少し後ろめたさを感じるなど、フィジシャン・サイエンティストとしての葛藤もでてきて、何だかほっとした。
 全編、彼が経験した患者さんとのやりとりの人間ドラマが展開され、その患者さんの脳の中で起きている事象を、光遺伝学による研究と巧みに結びつけながら解説している。症例記載は鮮烈であり、個人情報保護のため細部は変えてあるとの注意書きがあったが、ほとんどが創作ならそれはそれで凄い。また、感情の意義、摂食障害のメカニズム、記憶と感情の関係性など、脳機能とその変調に対するさまざまな仮説が論じられており、この領域に関心のある研究者にとっては、宝箱のような本だろう。
 また、特徴的なのは、進化的な視点を重視していることである。例えば、感情は何故あるのか?といった問いに対して、異なるカテゴリーにまたがる複雑な状況において、最適な行動を選ぶため共通貨幣として、感情が用いられるようになった、と考察したり、ヒトはなぜ、意志に制御されない形で泣くように進化したのか、それがどのように進化的に有利だったのかと考察したり、読ませるものがある。躁病のメカニズムにおいても、その進化的意義に言及し、精神医学にも進化の視点を取り入れるべきだと明言している。患者のカルテに、涙がなぜ出るのかの考察を書くことを自重した、などと述べているが、逆に論文にも、本書で述べたようなさまざまな感慨を書くことを自重して来たのかも知れない。
 摂食障害を最大の謎としていることや、犯罪の神経科学の重要性、病気の研究だけでなく基礎研究が重要であること、神経科学が精神科患者の治療につながると同時に精神医学が神経科学の推進を助けて来たこと、DSM診断は仮の診断であることなど、彼が述べていることは、筆者としても同じ思いのことばかりであった。
 なお、本書は、文学的な表現に満ちており、いかにも科学者らしい明解な文章とは真逆であるため、かなり読みにくさを感じることは否めない。(英語の書評を見ても同様の評価が少なくないので、翻訳の問題という訳ではない。) 明解なはずの光遺伝学部分も、文学的すぎてよくわからない時があり、何のことかと思って文献リストを見ようと思っても、論文のタイトル等がなく、PMC番号しかないため、いちいち調べないと読み進められなくなってしまう。この本は光遺伝学による研究成果を知るためのものではないと割り切って、彼の語る物語に集中するのが正しい読み方なのかも知れない。

PS
 なお、Amazonでは、もう一冊、「Connections: A Story of Human Feeling」という本が出版されているように見える。しかし、どうやら北米版のタイトルが「Projections: A story of human emotion」、英国版のタイトルが「Connections: A Story of Human Feeling」らしい。紛らわしいのでどっかに書いておいて欲しいものだ。危なく、もう一冊出てる!と英語版を買って、しばらく読むまで同じ本と気づかない、という失態を犯すところであった。 
 この情報だけでも、この書評を読んでいただいた甲斐があるのではないでしょうか(笑)。


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