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「めんどくさい」をノーマライズする

今、やらないといけない仕事が目の前にある。でも、やりたくない。めんどくさいなぁっと思ってる。

めんどくさいって何だろう?と最近よく考える。誰もが使うこの言葉、そもそもどこからきたんだろう?語源を調べてみると、「目だうな」から来てるそうで、もとは「見るのも無駄、無益なこと(もの)」という意味だったらしい。今とずいぶん違うな。

現代の「めんどくさい」の意味を自分なりに説明すると「何かを実行に移すだけのエネルギーが十分ではないときに感じる主観的な感覚」というところかな。

こんな風にドライに表現すると普段使う時の語感と随分印象が違う。通常「めんどくさい」という言葉には「怠惰」「不真面目」「ダメ人間」のようなニュアンスが付随している。

だから、友だち同士や家族の中など、気兼ねしなくていい相手にしか使えない。学校や会社で、先生や上司の前で使おうものなら、たちまち高圧的な言い方で叱責される。

でも、実情は「実行に移すエネルギーがない」のである。これが極端になったのがうつ病ではないか、っていうと語弊があるかな。「じゃあうつ病は怠け病ってことか?」と言われそうだ。

いや、つまり何が言いたいかというと、「めんどくさい」をもっとノーマライズ出来ないか、ということなのです。「うつ病は怠けではない」というのと同じように。つまり、そこに価値観を持ち込まず、単にエネルギーが足りない状況と考えれば、人は自分を責めなくていいし、人を攻撃しなくなるんじゃないか。

「怠ける」という言葉には、「勤勉でなければならないのにそうではない」という否定的な意味がすでに含まれている。同様に「めんどくさい」にも「勤勉であるべきなんだけど」という価値観がすでに混ぜ込まれている。

この価値観が付随していることで、人は行動しない状況に罪悪感を感じ、生産的な方向へと方向づけられる。勤勉な日本人は特にそうなのかもしれない。生産性を高めるためには有用な価値観であることは間違いない。ただ、人が素直に自分の感じてることを感じることを阻害してしまうという弊害がある。

「怠けてちゃいけない、頑張らないと」と考えると自分に鞭打つ感じでつらいけど、「エネルギーが足りないな…でもこのままやらないでいると、後で自分が困るよな」という健全な葛藤を自ら抱え、やらない選択もある中でやることを選択すれば無理がないし、それでそのことが達成できれば、「やっぱりやってよかった」という充足感と自信が得られて、結果的にエネルギーが出てくるし、次に同じような状況になったときに前向きになれるといういういい循環になる。

ということで、「めんどくさい」をノーマライズするために「エネルギーが足りない」と言ってみてはどうだろうか。

で、そろそろ目の前のめんどくさい仕事に取り掛かるか。めんどくさい奴だな、自分。

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