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2024年9月11日 自由は持っているだけでは意味がない

 写真は手の長いねむちゃん。

 引きつづき仕事。仕事じゃない平日なんてあまりない。昔はもっといろいろなことを考えていたけれど、社会人になると考える能力が下がっているのを如実に感じる。たとえば、昔はもっとたくさん日記を書けていた。書くことがたくさんあった。いまでは生活の大半が労働になっているので、なかなか難しい。

 仕事の量は減らせないだろう。毎日10時から19時まで働いている。休憩込みで9時間の拘束である。この時間はどうしても確保しなければならない。あとは通勤で2時間取られている。これが非常に無駄だとは思う。会社の近くに引っ越せたら楽だけれど、これは家を買ってしまったので難しい。本当はリモートワークができればよいのだ。虎視眈々と狙っているけれども難しい。タイミング次第では大丈夫だと思われるが……。

 通勤の2時間がなくなれば、自由な時間がもう少しつくれる。

 さて、大事なのは自由な時間を作ったあとのことだろう。その空いた時間でだらだらしているのであれば意味はない。そんなことをしているくらいならば、通勤時間に本でも読んでいたほうが有意義だろう。たぶん僕はパソコンというかプログラミングをすることになるだろう。あとはもう少し猫たちと遊びたい。

 書いていて思ったけれど、通勤に時間が掛かるのは仕方がないとして、その時間を有意義に使うという方向性もある。読書とか、ラジオを聞くとか。意外と家にいると本を読めなくて、通勤などの拘束されている時間ほど読書がはかどったりする。英語のラジオを聞くとか。プログラミングは難しいだろう。もしかしたら、将来的にはウェラブルデバイスが発達して、パソコンの画面をメガネに表示したりできるようになるかもしれない。そうなったら面白いが、その方向性へ進むのが先か、自分が通勤のない自由な生活を手に入れるのが先か、難しいところだろう。

 無駄な時間というのは生活のなかでたくさんある。そこを削減すれば、多くの人が時間を作ることができるだろう。しかし、つくったあとに、何をするのか。そこが重要である。自由な時間をつくるためには、本当にやりたいことを見つける必要があるだろう。やりたいことがあれば、どうにかして時間をつくるものだ。休日でも早く目が覚めるようになる。だらだらと昼まで寝るということも少なくなる。まぁ、昼までゆっくり寝たいという人は、そういう人生を送ることになるだろう。それもまた幸福か。

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