某広告代理店の過労死問題

相変わらずNPを次世代の新聞利用していて、とても衝撃的なニュースが入ってきた。

某超一流広告代理店の若手社員が自殺した、というものだ。

- こちらがその女性のTwitterアカウント

- これがNews Picksによる世間の反応

このニュースを聞いた時、正直とても嫌なことを思い出した。私が新入社員で勤めた会社も同じような「ブラック」な空気感があり、命からがら逃げ出して大学院に入ったのだ。その時、あまりに世界が怖くなっていたし、周囲への信頼が低下していて、言葉が話せなくなった。これが私が日本語をしばらく遮断して英語に主要言語を変えたきっかけだ。確かにそのおかげで私は英語はネイティブと間違えられるレベルにはなったが、あの「おかしみ」はその後の私の人生にも大きな衝撃として残り続けている。その場所ではセクハラは「耐えるのが当然」であり、文句を言うことは「空気を読めない」「思いやりがない」などとされる。理不尽な「お叱り」も毎晩のように飲み会に付き合わされて残業代がつかないなども「当たり前」だった。さらには社員の人身売買や不倫は「自慢の種」であって、人を傷つけることをむしろ自慢して笑い物にするような非人間的な行いが常態化しているのだ。今思えばそれは単なる野蛮人である。その人たちはまるで、誰かターゲットを見つけてはいじめまくる、というようなことを生き甲斐にして生きているようにさえ見えた。今思えばおかしい以外の何ものでもないが、その場所でみんながそれを当たり前だと思っていると感覚が狂ってきてしまうのだ。これは私がジョージ・オーウェルの1984が実際に世界にあると知ってしまった瞬間である。私はフィクションは作り物だと思っていたが、こんな漫画みたいな世界が本当に世界にあると知ってしまった瞬間である。そして、その経験を通して、むしろ今まで日本で生きてきた中でほとんどがこのような要素を持っていたからこそ、私は人とあまり関わりたくないと思うタイプの人間だったのではないか、と思うに至った。

それでこのニュースを読んだ時、おそらくこの女性は「あの空気」に耐え続けて自殺まで行ったんだろうな、と思った。私は未だにその空気の中にいる人たちが、本人たちも病んでいてあのようないじめをしたのか、慣習にどっぷり染まったためにそのおかしささえも気づかないレベルになっていたのかはよく分からない。その場所に染まっている人たちは「その場所が世界で一番いい場所だ」とでも言いたいかのように、そこから逃げ出すのを止めようとする。周囲も、「これぐらい耐えられないなんてダメなやつだ」などと言い、少しでも弱音を見せれば「鬱病なんじゃないか、そんなお荷物は会社には置いておけない。」などとさらに追い討ちをかけられる。それで実際その人たちがどのような仕事をしているかといえば、大変失礼だが、AIであれば一瞬でできるような事務作業を何日もかけて行ったりするような「蛇行運転」である。そこではむしろ「労働時間」「残業時間」「徹夜の日数」が評価基準であり、自慢すべき勲章になりうるので、同じ仕事でもゆっくりやったほうが給与が上がるような評価体系になっているからである。

私は早めに気づいた。もし俊足で仕事を終わらせて帰ろうとすると「サボっている」と言われる、もしくは「別の仕事を積まれる」(にもかかわらず給与が増えるわけではない)、そして「自分のことを優秀だと思って調子に乗ってる」などと言われ叩かれ始める。これでは効率化するインセンティブなどは何もないわけである。そしてこれがもっと重要なポイントであるが、その会社は経営が傾いているのである。つまり「誰かが頑張らなければ潰れるのに、誰かが頑張ろうとするのを周囲が潰す」という構図が出来上がっているのである。これを自殺志願社員の集合、とでも呼ぼう。それをすれば自分の会社が潰れる可能性がある、ということにまで目がいかないらしい。その自殺志願社員たちは実際会社の経営が傾いていることにどれほど気づいているかもわからないし、潰れた後にどうやって生きていくんだ、ということもあまり考えていないから蛇行運転、そして毎晩の気晴らしに精を出しているんだろう。私は本当にまったく理解できなかった。その人たちがうっすら潰れそうなことに気づいているからこそ、こんなに気晴らしのごとく飲み会ばかり行い、気晴らしのごとく新入社員をいじめ、そして世界に目を背けたかのように40年前のライフスタイルを維持しているのか。

結局今でもわからない。しかし今勉強してみて思うことは40年前のライフスタイルしか知らない人は40年前が40年前であることに気づかないのかもしれない、ということだ。それほど世界に目を閉ざしているということでもある。それから、もうひとつ言えることは組織は生命体と同じ動きをするのかもしれないということだ。「死にかけの」組織というのはある種のコンパクト性を備えていく、とカタストロフ理論の提唱者であるルネ・トムは言った。ここでいう「コンパクト性」とは数学の概念で「収束する点列を備えている」という意味である。それはある意味で「閉鎖性」の別の表現とも言える。これと同じような話はノイマンのセル・オートマトンでも言われている。秩序フェーズにあるクラス1とクラス2の状態はほぼ「止まった状態」であり、それは同時に「死んだ世界」とも言える。某会社はおそらく40年前に死んだのだろう。その時点で止まっていたのだ。私の予想ではこの事件のあった超一流企業も同じではないかと思う。もしかするとセクハラや企業不正の事件などを起こす人というのはこの場所の「死」に気づいてるからこそ、そこから抜け出そうとして過激な逸脱を見せるのかもしれない。にもかかわらずその逸脱さえも結局40年前のものなので、結局組織に「空気孔」を開けるには至らないのだ。そしてそれが40年前のカオス生成タイプであるところにさえ気づかないところに、もはや手遅れを感じる。

死んでいる組織に染まって一緒に死ぬなんてことを考えてはいけない。生きるためにこそ、辞めるんだ!逃げろ!生きろ!ひょっとするとその場所において、おかしいのはあなたではない。もしくは「死にたい」と思っているのはあなたではない。むしろ周囲の自殺志願者集合が、いやその組織が「死にたい」と言っているので、このような敏感な人に乗り移ってしまうのかもしれない。いずれにせよ、ひとつ言えることはこの世界には「そうじゃない場所」はある、ということだ。そこを目掛けて飛び出しなさい。たとえ何度も同じような自殺志願集合に出会ったとしても、そうじゃない場所を探し続けるんだ。それぐらいしか生きていける方法論が思いつかないほどに、この国には自殺志願者があまりに多すぎる!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?