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コロナ禍での帰海、そして自宅隔離へ(1)


これは、2020年3月に日本から中国上海に戻ってきた時の記録である。一部私が実の姉のように慕っている王青氏(以下王姐)の取材を受けて記事にされた。

私自体、2020年1月の頭から、コロナウイルスの存在を知っていて、人事総務部に湖北省への出張等を禁止するように促した。1月中旬にはタイのバンコクに出張行っていたのだが、上海に戻ってくると想像以上に酷い被害状況で、上海にも日増しにウイルスの脅威が迫ってきているのを痛感していた。

武漢という巨大都市が封鎖されるも、中国という国門が閉ざされることはなく、武漢から国内外含めて多くの人が逃げるように出て行った。上海でも感染者が出始めたころ、丁度春節休みに入った。

私は当時妻が妊娠中で、春節中に日本に帰る計画はなかった。普段私が通うジムもとうとう休業になってしまい、上海の街中は恐ろしいほど人気がなくなった。街中の店から、ECサイトからマスクというマスクが全て消え失せた。

※私は1月上旬よりマスクとアルコール、次亜塩素酸等の「防護用品」と「消毒関連の商品」、水や保存食を大目に買っていた為、市場の大混乱に振り回されることはなかった。この辺り、阪神大震災、関東東北大震災、SARSの経験値が活きたかなという気がする。

総経理からの電話で帰国を決意


1月末も近くなったころ、私と家族は家での引きこもり生活に入っていた。外は寒いし、感染のリスクがある為外出することをほぼしなかった。春節休みには入ったが、ネットスーパーは普段通り配達してくれるし、特に困らなかった。

ふと、携帯が鳴り、表示を見ると総経理から電話が…

総経理「おう、お前今実家か?」

私「え?私、上海におりますけど…」

総経理「はあ?ほんまか!いや、中国今えらいことになってるやろ。大丈夫か?」

私「まあ、外には出てないですけど、不自由なく暮らしてますよ。家の前のスーパーも空いてて、野菜とか肉とかも普通に手に入りますし」

総経理「ほんまか?言っとくけど、上海におるんお前だけやで、皆日本に帰って来とる。お前も帰った方がええんちゃうか?」

色々仕事の話をしてから電話を切ったのだが、冷静に考えると確かに当時の状況は日増しに悪くなっていた。ただ、妻は3か月後に出産を控えているし、飛行機に乗るというのも感染リスクに晒され億劫だし、産後院の費用も半分払ってるし…

色々悩んだが、急遽チケットを取って日本に帰ることにした。2週間もすれば落ち着くかもしれないから、その時に上海に戻ろうと。今思えばその考えは甘かった。


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突如返ってきた孫達に私の両親や妹家族も大喜びだった。ただ、いくら家族と言えども狭い家の中で長い時間暮らしていると色々お互い気を遣い疲れてしまうものだ。

当初2週間で返るはずだった上海への渡航は無期延長となってしまった、会社の社長方針で駐在員の中国への渡航が禁止とされてしまったからだ。

これには困り果ててしまった。実家とは言え、自分の家ではないし、いつまでも居候しているわけにはいかない。かといって、外で家を借りても会社はその家賃を負担してくれない。住民票を抜いているせいで、産婦人科に検診行くと毎回2,3万円かかる。日本でもどんどん感染者が増えてきて、状況がどんどん芳しくなくなってきた。

となると、どこにも出かけられず、家の近くの公園を散歩するか、スーパーに買い物にいくぐらいしかすることがない。おまけに、家の近くのドラッグストアやスーパーではマスクが売り切れで、毎日アルコールで消毒したり、洗って再利用するしかなかった。

この生活が1カ月弱続いた。しびれをきらした私は会社に3月中旬頃の飛行機で上海に帰らせもらうよう会社と交渉した。申請してまもなく却下された、社長が許可しないと。

私は非常に焦っていた。日本で妻を出産させるにはあまりにハードルが高すぎる。50万円程の出産費用は自己負担だし、中国のような産後院もない。初めての出産である妻にこれ以上余計な負担をかけたくなかった。


決意をあらたにし、会社と再交渉


私は意を決して、再度渡航申請を行った。諸々の理由があり、上海に戻らなければならないので許可してくれと。総経理からはOKをもらった。だが、社長は首を縦に振らなかった。

業を煮やした私は賭けに出た。今回の渡航を認めてもらえないのであれば、会社を辞めると。自分の家は上海にあり、生活基盤も向こうにある。もうこれ以上は待てない、と。

覚悟が通じたのか、こいつめんどくさいわと思われたのかは知らないが、社長から「条件付き」で許可をもらうことができた。要は、帰って向こうでコロナに罹患しても会社はしらんで責任とらんで、自己責任やで、ということである。(酷い話だが)


やっとの帰海、そこで見たものは…


元々、3月20日の週でJAL便を抑えていたのだが、JALのご担当者さんがオフレコで、「もう少し早い便に変更しませんか?」と打診してきた。どういうことかと聞くと、「中国政府が入国制限もしくは入国拒否の政策をとることが予想されます…なので…」。これは薄々感じていたことなので、すぐに前倒ししてチケットを変更してもらった。

次の日、また同じ担当者から連絡があり、「もう少し早い便にご変更なさってください。さもないと今の搭乗券が紙くずになる可能性大です」と。さすがに、これには焦った。要は、飛行機がその日以降は飛ばなくなることを示唆していた。急いでチケットの変更を行った。

結局、3月16日の関空発JAL便に乗り(結局関空からのJAL便はこの日の便が最終となり、成田便のみが飛べるようになった)、上海に戻った。マスクは二重にして、防護ゴーグルをかけ、PVC手袋を着用、座席周りは念入りに除菌用ウェットティッシュで拭きまくった。感染リスクを下げる為に、トイレにもいかなかった。

飛行機はいつも通り、2時間弱で浦東空港に到着した。窓から外の景色を見るとギョッとした。防護服を着用した係員が待ち構えている。これはえらいとこに帰ってきたと、その時は思った。

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事前に健康管理チェックシートなるものを渡されていたので、それに記入をし、健康管理QRコードの取得も終えていたが、飛行機を降りてからどれ程の時間を要するか全く読めなかった。

入国審査場が見えてきた。うわっ……とんでもない数の人達が並んでいる。これは大変だぞと思った。こっちは妊婦と子供連れである。よし、と腹をくくって中国の「優しい」一面に賭けてみることにした。

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「请问孕妇排哪边?」(妊婦はどこに並べばいいですか?)

字面だけ見ると、ただ単に並ぶところを聞いているだけに思うかもしれない。違うのだ、これには明確な意図があって、わざとこう叫んだのだ。

この記事にも書いたが、中国は老人や子供、妊婦に非常に優しい社会である。私は、彼らの善意に「列に並ばないで先に通してもらうことは出来ないか」と委ねたのである。

人によっては、人の善意を逆手に取った薄汚い奴だと思われるかもしれない。だが、どう思われてもいい。どう思われようが、身重の妻の負担を少しでも軽減したい、ただそれだけを考えていた。

結果、どうなったか。防護服とゴーグルで完全武装していた係員に「排最前面!」(一番前においで)と言われ、一番前に行かされ待ち時間を大幅に減らすことができた(譲って頂いた皆さん感謝です)。妻も係員に「大変だったね!もうすぐで手続きおわりだからもう少し頑張って!」励まされ、「やっぱり祖国が一番だわ」と安心していた。また、子供達も一様に「お帰り!よく頑張ったね!」と声をかけてもらっていた。私は胸が熱くなった。

書類手続きや健康アプリのQRコード登録が、私と妻だけではなく、子供達の分も必要だったので、意外と手間取ってしまったが、丁寧にやり方を教えてくれたおかげでスムーズに処理できた。

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イミグレを通過し、荷物の受け取り場所へ。エスカレーターを降りる前から既に次亜塩素酸(プールで臭うあれ)の強烈な匂いが鼻に襲ってきた。見ると、荷物が回るレーンで防護服姿の係員が農薬をまく人のように、次亜塩素酸が入ったポリタンクを背負いながら、レーンで回る荷物に消毒作業を行っていた。これは、かなり本格的な防疫体制で、中国は本気でウイルスとの闘いに勝利しようとしているのだと痛感した。

無事に荷物をうけとり、次のバス待合室へと向かった。ここでは、各区毎に受け付けが分かれており、住んでいる場所の受付に向かった。そこで再度表に個人情報を記入し、10分も待たずに係員が現れ、会社の車が止まっているところまで案内します、と。

そう、当時はまだ会社手配の車でも迎えに行くことがケースバイケースではあるものの、一部で認められていた。私の場合、妻が妊娠後期であること、子供が二人いることもあり、会社手配の車での迎えが認められていた。とはいうものの、政策が朝令暮改ならぬ、朝令朝改のような中国では、事前に認められていたとしても、土壇場でNOとなることも多々ある。今回はそれだけが心配だった。ともあれ、何とか会社の車で自宅に帰れることになった。これにはほんと助けられた。

係員さんとは、会社の運ちゃんが待っている指定の場所でバトンタッチ。運ちゃんと私は10数年来の友人なのだが、彼も防護服で完全防備の状態で、車内も運転席と後ろの席を隔てるようなシートを張りめぐらしており、係員に完全防備をアピールしていた。

車が出発するや否や、運ちゃんは「领导!你终于回来了!!!」(旦那!やっと帰ってきれくれたね!!!)と嬉しさを爆発させ、防護服のフードとゴーグルを脱ぎ捨ていつもの「笑顔」で迎えてくれた。私も彼との再会を心から喜んだ。

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道中、運ちゃんから私が上海にいなかった一カ月半でどういう状況だったのか色々教えてくれていた。2月は特に大変だったらしい。私が入国した日は既にかなり沈静化に向かっており、市民の生活も安定して来ていたころだったのである。そう考えれば、一番酷い状況の時期に日本に避難し、中国が落ち着き始めたころに帰ってきた、ということになる。妻は、「我老公太精明了」(ダーリンはほんと賢い)と褒めたたえたが、結果的に部下達を見捨てて日本に逃げたような形になった私は、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

そうこうしているうちに、あっという間に家に到着。小区の入り口で体温測定と個人情報の記入を行って、自分たちが住む家の棟にたどり着いた。運ちゃんとしばしのお別れをし、棟内に入りエレベーターを待っていると、後ろから他の住人がやってきたのだが、大きな荷物をもつ我々を見てぎょっとし、逃げて行ってしまった(苦笑)

久々に帰ってきた我が家は離れる前と全く同じ状態で、ほっとした。幸いにも、上海から離れる前に、お米や水、保存食(缶詰とか味噌汁とか)、お菓子等を大量に買い込んでいたこともあり、当面小区の管理会社の人達に迷惑をかけずにすみそうだ。

そして、これから自宅隔離の14日間が始まる。


<つづく>




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