本音と建前

どんなに科学や技術、SNSが発達発展しようとも、本音と建前、恥に対するこの国特有の文化は脈々と続いているような気がしてなりません。

だから、「私」以外の誰かを引き合いに出さなければ自分から声をあげるのは怖いのです。

私は平気だけど、他の人に迷惑をかけたらいやだし…

そんなの本心じゃないことくらい、誰でも察しがつきませんか?

私以外を引き合いに出さないと恥ずかしいからです。自己保身は恥ずかしいからです。カッコ悪いからです。

本音と建前、これ、世代に関係なく私たちの世界のスタンダードじゃないですか?

勇敢な人々は声をあげます。でも、その声が本心なのかそこは疑問を持つべきです。

一部の大声を数多くの小さな声の代弁だと勘違いしてしまうのはSNSに疎い人々やメディアであるように思います。

鵜呑みにしないで下さい。

ちゃんと怖いんです。でも、言うこと聞いて大人しくしていることがカッコ悪い、その感情が怖れを逆転した瞬間にルールなんかあっと言う間に反転してしまいます。

普遍的秩序を手に入れるには、ルールを守らないことが圧倒的にカッコ悪いと思えるような状況にならないと必ずほころびます。

つじつまが合わないことが許せない、私たちの世界はそんな正義を持っているような気がします。

だから、自信を持って伝えて欲しいのです。

ありがとうとごめんなさい、政治やルールを司る立場の人がこのふたつをしてくれないから、みんなイラついたり落胆したりふてくされたりするのです。

シンプルにごめんなさいがあってもいいと思うは私だけでしょうか?

未知との遭遇なのです。見込みと実績が違うのは当たり前じゃないですか?その中で過ちを許せないほど、人々の心は歪んでいないと思います。


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