我々はなぜ学ぶのか

およそ2年ぶりの投稿となる。
何となく書きたくなったのでここに記しておく。今後も何となく書きたくなったら書こうと思う。

昨日ある小説を読んだ。
森博嗣の「すべてがFになる」である。 

ドラマ化、アニメ化もされた森博嗣の代表作であり、S&Mシリーズの第一作である。ご存じの方も多いであろう。

僕がこの本と出合ったのは高3の春である。受験も終了し、大学入学の日を待つのみとなった僕は暇を持て余し、近所のブックオフに行った。そこでこの本を見つけたのだ。
アニメ、ドラマは見ていなかったが、タイトルだけは知っていた。値段も100円であったため、暇つぶしにはちょうど良いと思い特に深く考えることもなく購入したのを覚えている。
そのあと近所のミスタードーナツに行き、ドーナツ一個とカフェオレのお替りで読み終わるまで粘った記憶がある。

さて、現在僕は大学院の修士課程2年生である。つまりこの本を読んだのは5年半ほど前となるのだが、今現在当初読んだときの記憶が全く存在しない。メインのトリックすら覚えていなかった。覚えているのは密室の中で天才の博士が殺されたということだけだった。そもそも、読んだ後にどのような感想を抱いたかすら忘れてしまっていた。

しかし、とあるブログで僕の好きなシナリオライターがこの小説を好きなことを知った。ちょうど全く内容を覚えていなかったので、試しに読み直してみることにした。
5年半ぶりに読み直した森博嗣のデビュー作は面白かった。なぜ忘れていたのかと思うくらいド派手なトリックと、軽妙な掛け合い。僕の好みの小説である。近所のブックオフで続きをすぐに購入してしまった。

と、ここまでが前置きである。
なぜ僕は今現在読んで面白いと思う小説の内容をその感想すら忘れてしまっていたのか。
いくつかの理由が考えられる。例えば、当時は面白く感じなかった。面白いと感じたけれどそれを覚えていない。そもそも集中して読めていなかった。etc…
ちなみに自分としては集中して読めていなかったような気がする。おぼろげながら読み終わった後「よくわかんなかったなこれ…」と思ったような記憶がある。今回は特にそういった感想は抱かなかったが。
さて、ではなぜ集中して読めていなかったのか。あるいは面白いと感じなかったのか。

高3当時の僕には知識がなかったからである。

※以降、小説のネタバレを含む





「すべてがFになる」は理系ミステリとも言われる。主人公は工学部の大学教員、助手も理系の大学生、舞台となるのは研究所、殺されたのは天才プログラマ、そして作者は某大学の教授である。(ちなみに僕はこの某大学を受験して落ちている。悲しい思い出である。だからこそ集中できなかったのかもしれない。)
そして、メイントリックそのものとは関係ないにせよ、この物語には情報工学の話がいくつか出てくる。プログラミングの話や、16進数の話だ。タイトルはまさに16進数の話である。

高3の僕がどの程度話を理解していたかは今となっては僕自身にも全く分からないが、少なくとも今現在の僕と比べて情報工学の知識が劣っていたことは確かである。そういった理由からこの物語を楽しむことができていなかった場合、僕にとって物語を楽しむ上でキーになったのは「知識」である。それは言い換えれば、「僕自身が5年半で学び、積み上げてきたもの」である。

これに気付いたとき、僕らが学ぶ意味はこれなんじゃないだろうかと思った。勉強することに意味なんて特にない。もちろんそれを役立てる機会はあるとしても、そのために学問を学ぶのはあまりにも真面目過ぎる。大学に5年半いるが、アカデミックの世界に残っている人間に世間様の役に立つために研究をしているという人間がどれほどいるのだろうとたまに思うことがある。
話が逸れたが、勉強することの意味の一つは「世界の解像度を上げるため」だという言葉を聞いたことがある。身の回りにあるものの原理原則を理解することで、より深く世界を見通すことができるということらしい。何というか、この言葉を身をもって実感したという気分だ。初めて聞いたときは「世界」という言葉が何となく遠くに感じてしまって、「身の回りのこと」という意味であることは頭で理解していたが、実感はしていなかった。
その感覚を、知ってしまった。

目の前にあるものと頭の中にあるものが結びついていく。そのことが、こんなに面白いことだなんて知らなかった。

かなり話が逸れてしまった。酔っぱらいの文章かよ。

長々と書いてきたが、要するに「楽しいこと、面白いことをさらに楽しみ、面白くするために学ばなくてはならない」ということに気付いたというお話でした。
きっとそれが、「人生の豊かさ」なんだろうね。
飽きてきたからここまで。
また書きたくなったら書きます。誰も読まないと思うけど。

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