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「軍艦島」のリアル(徐正雨氏)

14歳の時、役場から徴用の赤紙が来た。
名古屋に父母、佐世保に親戚がいて逃亡するつもりでした。
端島で糠米袋のような服を与えられ、日本刀をさげた者が命令した。
うつぶせで掘る狭さ、暑さと疲労で眠くなり、生きて帰れないと思いました。
落盤で月に4、5人は死んだ。
食事は玄米20%に豆カスの飯。
鰯(イワシ)を丸つぶしたおかず。
毎日のように下痢し衰弱しました。
仕事を休むと監督のリンチでした。


(長崎市史編さん委員会編『新長崎市史』第4巻、2013年)
注)読みやすさを考慮して句点ごとに改行しています。

●解説
 長崎市が刊行した『新長崎市史』から。徐正雨氏は1928年、慶尚南道生まれ。一般に軍艦島として知られている端島(はしま)にあった「端島炭坑」で労働を強要された。

 端島炭坑については、労働者の住宅などの福利厚生も整えられていたとしばしば語られている。大資本の三菱財閥が経営していた優良炭鉱であるから、その通りだったのかもしれない。しかし逆に言えば、そんな優良炭鉱ですら戦時下は上記のような状態だったということであり、中小資本の炭鉱はもっと状況がひどかったことが推測できる。

 なお、証言に出てくる「徴用の赤紙」というのは、本人の記憶違いか、あるいは比喩的な表現と思われる。徴用令書は赤い紙ではないし、この時期はまだ国民徴用令に基づく炭鉱への配置は行われていない。役場の職員なり、町内会の有力者なりに呼び出され、断ることも許されずに端島に行くことになったということかもしれない。断ることも許されずに端島に行くことになったということかもしれない。

 「日本刀を下げた者」という証言だが、あくまで本人の印象であり、本当に日本刀だったかは判断が分かれるところだろう。「落盤で月に4,5人は死んだ」との部分は、残されている火葬認許証の交付申請の数を踏まえると多すぎる。「落盤が多かった」という認識と、「月に数人は、亡くなったり、死ぬような目にあったりした」という記憶が、ないまぜになっているとみられる。