朝鮮人労働者はなぜ裸足だったのか
戦時下の労働力不足を補うため朝鮮から労務者を内地方面に輸送するあっ旋を、ビューローで引き受けたのは、昭和16年6月からであった。〔中略〕
下関に送られてくる労務者は、毎日500人乃至(ないし)1000人ぐらいで、これらを炭坑、一般鉱山、鉄道、土木の業種別に分け、さらに九州、四国、関東、北海道、樺太および南洋群島までの地区別に分けて輸送あっ旋を行なった(ママ)。
そのうえ、下関に上陸する者の大半は裸足のままであったので、大量の草履の買付けからはじまって、農林省に交渉のすえ特配米の食糧切符の交付を受けて弁当の作製、配給などまで、食糧や物資事情の極度に悪化した当時ではなかなかの大仕事であった。加えて、朝鮮労務者の中には半強制的に徴用された者もあって、輸送途中で脱走、逃亡者が絶えず、このあっ旋は担当者にとってつらい嫌な勤めであった。(出典:財団法人日本交通公社社史編纂室『日本交通公社七十年史』1982年)
●解説
日本交通公社の前身は、海外からの観光客の誘致等のために1912年に創立された、ジャパンツーリストビューロー。史料中の「ビューロー」というのは、その略称だ。現在は、JTBという社名で知られている。日本に住む人にとっては、国内、国外の観光旅行でおなじみの会社である。1941年当時は、名称を変更して「東亜旅行社」という呼称となっていた。
戦時下では、この会社の主要業務も、観光旅行ではなく戦争のための国策遂行となっていた。その一環として、炭鉱や土木の工事現場等に配置される朝鮮人労働者の輸送を担当していたのである。上記の「70年史」では、「半強制的」な動員があったこと、輸送途中の脱走、逃亡が絶えなかったことが、淡々と記されている。
注目すべきは、下関に上陸する者の大半が裸足のままだったとの記述だ。おそらくは当時、直接業務にあたった人の証言をもとにしたものだろう。
当時の朝鮮農村にいる人びとは、通常、チプシンと呼ばれる履物を使用していた。日本の草鞋(わらじ)と同じように稲わらで編んだものだ。したがって、何日も履いて歩き続ければすり減って使い物にならなくなる。
事前に予定されていた旅であれば、あらかじめチプシン編みに精を出し、多めに用意しておくことはできる。あるいは金を工面して丈夫な靴を買うということも不可能ではない。ところが、連れてこられた朝鮮人の大半は裸足だったのである。
つまり、事前の旅行の準備はまったくできなかったということだ。
ここから、この移動が当人の意に反して行われたのではないかと想像できる。動員計画に基づいて日本内地に送る要員の選定は、指定された面(村)で数日の間に行われた。動員される側から言えば、いきなり数日後に日本に向けて出発せよということになる。あるいは、さまざまな史料から裏付けられるように、野良作業に従事している時にいきなり連れて行かれた人もいたのである。
これでは、旅行の準備などできるはずがない。何も予定していないのに長い移動を強いられ、いきなり家族と引き裂かれるというのが、朝鮮人の労務動員の実態だった。これは、日本人に対する労務動員ではあり得ないことだった。
戦時下の社会を記憶する人びとが少なくなっている今日、「朝鮮人の動員は当時の法令に従っていた」とか、「国際法でいう強制労働に当たらない」といった主張が盛んになされている。だが、まずは裸足で日本の地を踏んだ朝鮮人の姿をイメージし、彼らがなぜ、どのようにしてやってきたかを想像してみるべきではないだろうか。
「担当者にとってつらい嫌な勤めであった」のはその通りだが、動員された朝鮮人やその家族のつらさは「担当者」よりもずっと深刻で、しかも長く続いたのである。