「募集」の法令とその実態①――定められた「働く条件の説明」は行われなかった
●解説
1940年1月に定められた、朝鮮人「募集」のための法令「朝鮮職業紹介令施行規則」の条文である。これを読むと、「募集」に当たっては就業時間、賃金、食事や必需品の支給などについて、応募した労働者に説明しなくてはならないと書いてある。労働者が問題行動を行なった際の「制裁」についても、事前に説明しなければならないことになっている。
日中戦争から太平洋戦争へと戦火が拡大するなかで、日本本土では、人が集まらない現場での労働力不足を解消する必要が出てきた。ここで言う「募集」とは、そのために行われた朝鮮人労務動員の最初の形態である。制度的には、39年に始まった「募集」が、42年には「官斡旋(かんあっせん)」へと進み、終戦直前の44年には「徴用」となる。
朝鮮人戦時労務動員の問題を、最近は一般に「徴用工問題」と呼ぶし、当サイトもそれに従ってはいるが、戦時労務動員が人権侵害を伴ったのは、「徴用」段階からではなく、個別の企業が朝鮮総督府の許可を得て地域に入って労働者を募集するという「募集」段階からであった。
上に紹介した「紹介令」のように、後に「朝鮮人強制連行」として知られることになる労務動員計画による労務動員も、まがりなりにも大日本帝国の法令に基づいていた。ところが、当サイトでもこれまで紹介してきたとおり、様々な証言から、その法令がちっとも守られていなかったことが分かる。
朝鮮人の「募集」は、当初は「労働者募集取締規則」によって、40年1月からは「朝鮮職業紹介令」と「朝鮮職業紹介令施行規則」によって進められた。「紹介令」は朝鮮総督が定める「制令」だが、日本内地の帝国議会を通す法律レベルの重みを持つ。朝鮮総督府令として出された「施行規則」はそれの事務手続きを細かく定めた現在の省令のようなものである。土建や鉱山・炭鉱で働く肉体労働者を集める際に、トラブルの多発は問題になる。トラブルは、事業者と労働者の間でも、人集めを行う事業者間でも起こり得る。それを防ぎ、問題行動を起こした者を罰するために定められたのが、これらの法令だ。企業は規則に従って書類を作り、朝鮮総督府に申請する。
だが、上記の資料の法令に子細に書かれている「応募者に伝えるべきこと」は、実際に応募者に告げられていただろうか。
応募した側の証言を読むと、そうとは思えない。「行き先も知らされていなかった」という話すらある。法令には「制裁の定あるときは之に関する事項」とあるが、ちょっと疲れて休んだだけで「制裁」された、手足を縛られ、広場に連れていかれて、革バンドで殴られたといった証言もある。
彼らは事前に、そんな「制裁」を受けることもありますよと伝えられていただろうか。そんなはずはないだろう。
「宿舎、食事の費用其の他日常生活に要する費用の負担に関する事項」も見えるが、これらの自己負担についても説明されていない者が多かった。「募集」に応じて佐渡金山に配置された朝鮮人たちも、給与の他に食費や寝具代が引かれるとは知らず、無料だと思っていた。地下足袋などの作業必需品までが全て自己負担だということが分かったことで朝鮮人たちがストライキを起こしたという記録もある(相川町史編纂委員会『佐渡相川の歴史 通史編 近・現代』1995年)。
つまり、法令があったからといって、それが現実に順守されていたとは限らないのである。つらい目にあわされた当事者の記録を読みもしないで、「法に基づく募集だから問題ない」とうそぶく一部の人々の主張は、無意味な強弁にすぎないのである。