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植民地朝鮮のリアル――「朝鮮人は牛馬と思え」

 朝鮮人とどうやって仕事するか上から指示があった。(朝鮮窒素の工場自体が)建設中の、まだ役職も何ももらわんときにな。

 「朝鮮人はぼろくそ使え。朝鮮人からなめられるな」といわれた。朝鮮人は人間として見るな、人間の内に入れちゃならんぞという指示じゃ、て私はすぐ思った。

 水俣の日雇のとき〔自分が日本窒素水俣工場で日雇労働者として働いていた時〕、野口〔遵〕社長が、「職工は牛か馬と思って使え」といったという話を聞かされとったもんな。それと同じで、そういう腹で朝鮮人を使え、朝鮮人に情けをかけちゃだめということを、いわしたんだろうと思ったな。今度は自分が野口遵じゃ、てそう自分で確認したもんな。

 それで、朝鮮人にはビシビシやりよった。カーバイド〔の工場の敷地〕に大きな風呂があった。朝鮮人が日本人より先に入ったらなぐりよったばい。

 「なぜ入るか! 日本人が入らんのに入るてあるか!」て。そこまでやりよったばい。

(出典:岡本達明・松崎次夫編『聞書水俣民衆史 第5巻 植民地は天国だった』草風館、1990年)

解説
『水俣民衆史』は、熊本県水俣市の人々が経験した近現代史について、膨大な証言を聞き取り、まとめたもの。なぜ、水俣の歴史の本に朝鮮の工場が出て来るのか。水俣に工場を置き、戦後、水俣病の原因をつくった日本窒素が、植民地時代に朝鮮半島北部に進出し、朝鮮窒素の巨大化学工場を建設したからだ。水俣から朝鮮にわたってそこで働いた労働者たちの証言が、この第5巻『植民地は天国だった』に収められている。
水俣では下層の立場にあった日本人労働者たちも、朝鮮では地位上昇を果たし、朝鮮人労働者を使う側になった。彼らは朝鮮人労働者を「ぼろくそ」に、「人間として見る」ことなく酷使するようになる。
日本内地の職場でも、「牛か馬と思って」「朝鮮人にはビシビシやりよった」日本人は少なからずいたであろう。朝鮮人を下に見るのが当たり前の社会に生きていた人びとは、民族差別を疑問に思うこともなかった。戦時労働動員の過程でも同様の状況があったことは、想像に難くない。