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信長の鉄甲船について「思うところ」

鉄甲船の登場


今回のお題は鉄甲船です。鉄甲船は安宅船に鉄板を張った船で、織田信長が建造したことで知られている船です。
織田信長は足利義昭を擁して上京したころは西国の毛利氏と同盟関係にありました。が、近畿で覇権争いに加わると、足利義昭と断裂。信長包囲網が引かれ、毛利氏とも対戦関係となります。
毛利氏といえば瀬戸内を制海権におさめる水軍。信長が本願寺と対戦すれば、毛利氏が水軍を使って本願寺に兵糧を輸送する、という信長にとって目の上のたん瘤的な役割をします。

ついに毛利氏と直接対決する日が近づきます。というのも、足利義昭を京から追放し、京都を中心とする天下の実権を握った織田信長は西国への支配も強めようとして毛利が警戒したからです。
征夷大将軍である足利義昭は将軍職を保持したまま備後の鞆の浦にいました。また、播磨・備前においては浦上・宇喜多・毛利などによる境目争いがあり、天下を握る信長に関連するところにありました。

1567年、摂津木津河口で毛利と織田方は衝突します。信長と敵対する大坂本願寺に援軍として毛利水軍は石山本願寺に兵糧を運びます。信長方の水軍と毛利水軍は戦い、毛利水軍の圧勝で終わりました。
その2年後、1569年、木津川口に再来した毛利水軍を織田方の九鬼嘉隆が破ります。九鬼の船である鉄甲船6隻が毛利水軍600隻を打ち破ります。

鉄甲船ってどんな船。

鉄甲船の情報は『多聞院日記』や『信長公記』、宣教師オルガンチノルイス・フロイス宛の報告書などがあります。
船の寸法は21,8mから23,6m。幅は12,7mとされています。船体には厚さ3㎜ほどの鉄板が張られ、村上水軍の得意とした焙烙火矢対策をしていたといわれています。
船員数は5000人と記述ありますが、船の規模と合わないので、6隻で5000人。1隻辺り800人ほどと考えられています。
また、大砲を搭載していたようです。戦国末期、織田信長は鉄舟を建造していました。この鉄舟、安土城は琵琶湖沿岸に作られていたため、京都への移動を速くするため、また、中世には琵琶湖に湖族がおり交通税を徴収していたため、湖族対策も含めて鉄甲船が琵琶湖に浮かべられていたことがわかっています。

徳川秀忠の大安宅

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