はったい粉と祖母

はったい粉を知っている同年代の人はどれくらいいるのだろうか。はったい粉とは大麦の粉を煎って粉にしたもので、砂糖を混ぜてからお湯で固めの葛状に練り上げてから食する甘味である。地方によって呼び名が異なり、関西では「はったい粉」、関東では「麦こがし」と呼ばれることが多いらしい。主に戦前戦後の食料が不足していた時代から昭和四十年代にかけて子どものおやつとして重宝されていたようだが、現在ではその名を聞いたり実際に口にしたりすることはほぼ無いだろう。

このはったい粉と私が親しくしたのは小学生の頃だ。両親は共働きで帰りが遅く、学校が終わったら近所に住む祖父母の家もしくは仕事場へ行くことになっていた。そして一度ランドセルを置いて遊びに行ったり、一緒にテレビを見たり、ゴルフの練習をする祖父を眺めたりしながら両親の帰宅を待つのである。そうする間に日が暮れ、空腹を覚える。「おばあちゃん、なんかない?」

おやつをねだる私のために、祖母はお煎餅、羊羹、饅頭などの和菓子を始め、源氏パイや丸ごとバナナなどを日々スーパーで揃えてくれていた。祖父も子どもかのようにしょっちゅう「なんかくれ」と言うので(実際に子どもじみたところがある愛すべき存在である)、一般的な高齢夫婦と比してこうした甘味の消費量はかなりのものだったと思う。それがどんなことを呼び起こすかと言うと、「今日はなあ、何もおやつになるようなもんが無いんよなあ」「はったい粉ならあるで、それにするか」

そう、戦時中ならいざ知らず、はったい粉はメインを張れるような役者では到底ないのである。口にした経験のある方ならおわかりになるかと思うが、とにかくぼやっとした味なのだ。薄甘く、特徴のない味。煎った麦の香ばしさと言えば聞こえはいいが、番茶のそれとは全く趣が異なる乾き切った匂い。それこそ概念としての「おばあちゃんの家の匂い」に近いのかもしれない。はっきりとした甘さやクリームを美味しいと感じる子どもにとっては、相当に地味で盛り上がらないおやつであった。が、放課後の外遊びで給食を消化し切った胃はとりあえず何かを入れることを求めているので、「あ〜、じゃあ食べるよ」と答える。飽食と言われた時代においては、はったい粉なぞその程度の扱いなのである。

はったい粉は、マグカップにおいて供された。その多くは、今は無き三和銀行の社名が記された、アラジンのイラスト入りのマグカップであった。そのマグカップに祖母がはったい粉と砂糖適量を入れ、花柄の模様のポットから熱々と言うには少し冷めた湯を注ぎ、スプーンと共にこちらに渡してくる。私はそれを受け取り、スプーンで底から大きく返すようにぐるぐると混ぜる。すぐに粘り気が出てきて、その粘りが均一になれば完成である。スプーンですくいながら、口に運ぶ。さながら離乳食か、誤嚥防止のとろみがつき過ぎた粥のうなもちゃりとした食感で、時折ダマが崩れて口内に粉が広がる。なんとなく甘さを感じるが、舌が喜ぶ類の甘さではない。ただ、麦が原料だけあってマグカップの中身が空になる頃にはお腹が膨れるので、晩ご飯までのつなぎとしては優秀な間食だったと言えよう。

私がぼーっと夕方のニュースや大相撲を見ながらはったい粉を口に運んでいる間、祖母は台所でせっせとおかずを作っていた。我が家の食事の半分近くは祖母による物であり、関西出身で出汁に一家言ある祖母の料理は、決して派手ではないが滋養のある味だった。「ちょっと味を見てくれん?」と台所に呼ばれ、小皿に取った熱々のひじき煮や煮物の汁などを与えられる時の方が、はったい粉のそれよりも嬉しかったように思う。

こんなにも特筆すべきところの無いはったい粉であるが、「記憶に残っているお菓子」と問われた時に出てくるのは他でもないはったい粉なのである。はったい粉そのものの味と言うよりも、はったい粉を食べていた当時の記憶や空気感、祖父母との時間に愛着を感じているのかもしれない。たとえ今食べたとしても、「ああ、こういうよくわかんない味だったよね」と苦笑いして、平らげるには少し時間を要するだろう。そしてまた長い間忘れる。しかし、いつ何時でも祖母が台所の戸棚を開ければ、はったい粉はしかと存在しているはずである。祖母が生きている限りは。

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