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5月のかたりのヴぁ「おじさんを考える」の記録

なぜだろう、わたしは子供の頃から”おじさん”という存在に親しみを感じている。生きていく中で色々なおじさんと関わって、憧れたり、泣かされたり、きっと泣かせたりもしてきた。良くも悪くも、”おじさん”は若い女と対をなすものであり、だから憧れもすれば衝突もするのだろう、と考えていた時期もあった。そうやって、世の中には色々なおじさんがいるのだと身をもって知りつつある今も、やっぱり”おじさん”は、わたしにとって親しい。

おじさんについて考えるとき、その裏側には”孤独”がくっついているような気がする。相手がどんなおじさんであれ、わたしは彼の裏側にある”孤独”のことを想わずにいられない。人はだれしも孤独である、というのがわたしの意見だが、おじさんのそれが、ことさら気になるのは何故だろう。そういう興味からテーマを設定した。記録を書いている今、全体としてイメージの話になったなと振り返っている。

今回は、男性が7名、女性がわたし含めて2名、計9名が集まった。初めてレッツのイベントに来てくれた方、1年ぶりに参加するという方、参加は叶わなかったが「間に合ったらあとで来ます~!」と声をかけにきてくれた方もいて、なんだか始まる前から温度が高いようだった。”おじさん”をテーマに、詩を作ってきてくれた方もいた。素敵な詩だったのだが掲載許可をいただきそびれてしまった。機会があれば紹介したいと思う。

「おじさんにはね、遠慮があるんですよ……」

ここでは、おじさんを否定も肯定もしない。ただ考える場にしましょう、ということを、まずは参加者のみなさんと共有する。すると「今日はてっきりアンチおじさんの話が展開されるのだろうと思っていた」と拍子抜けされる方がいて、わたしもびっくりした。他の男性陣からも、「おじさんにたいする印象は、世間的には非常にネガティブなのだ」ということが伺える話が、ぽつぽつと挙がる。どうやらわたしが思っている以上に、おじさんを取り巻く世間の風は厳しいようだ。

「自分の匂いが、父と同じ匂いに変わったとき、おじさんになったなと思った」

参加者の方々が自らを”おじさん”であると主張していたわけではない。「自分は小僧だと思っている」という声もあれば、「おじさんになりたいなあ」という声もあった。さて、おじさんとは、誰のことを指すのだろう。なんとなくの共通事項があるように見えて、細かく見ていくとそれぞれの解釈がある。髭の有無、年齢、嗜好、昭和っぽさ……。「大学生の持つ中年イメージについて、卒論を書いたことがある」という方がいた。調査結果によれば、具体的に憧れている中年の人物がいるかいないかで、その年代の人々への印象が変わるという。さて、多くのひとにとって、最も身近にいる中年男性は父親だろう。ざっくばらんに中年男性をおじさんとするなら、あなたにとっての”おじさん”のイメージは、無意識に自分の父親を投影していることにならないか。

「おじさんになりたい」

世間的にネガティブな側面が強い一方で、おじさんには憧れる要素もある。「おじさんになりたい」という発言を掘り下げると、それは例えば、憧れていた先輩と同じ年齢になっても「全然追いついてないじゃん、俺……」と思う感覚に近いようだ。ここで言う”おじさん”は、貫禄がある、頼りがいがある、というイメージを持っている。わたし自身もおじさんになりたいなあと思うのだが、それはわたしが、他人にとって「貫禄があって頼りがいのある」人物になりたいと思っているからだと気づく。

「おじさん同士って繋がりにくいんだよねえ」

浜松市内にカーブスっていっぱいあるのに、メンズカーブスは1店舗しかないんだよね、という話題が出た。理由は色々あるだろうけれども、そのうちのひとつには、女性と男性のコミュニティの作り方の違いがあるのではないか。女性は「今日はいいお天気ですねぇ」という言葉だけで輪を作れてしまうのだが、男性の場合はモノを挟む必要があると。学生だったら、共に汗を流せば絆が生まれることもあろうが、社会人になるとなかなかそうもいかない。なにか媒体が必要なのだ。なるほど、ちまた公民館ではガンプラ部が一定の男性陣から根強い支持を受けているし、車いじりがライフワークであるわたしの父の周りには、同じように目をキラキラさせて車をカスタムしているおじさんがたくさん集まってくる。わたしが思うおじさんの要素のひとつに「少年の心」があるのだが、好きなものを通じて仲間ができる、という、自分の興味に純粋な姿勢がずっと変わらないという点において、おじさん=永遠の少年と言うこともできよう。

「おじさんが、生き生きと生きることです」

生物的に強く、また一家の大黒柱として存在する歴史が長かった中年男性は、きっと今でも無意識に「家長としての責任」を負わされているのだろう。だから、偉そうとか、人の上に立つとか、そういう側面がある一方で、簡単に弱音を吐けないとか、好きなものを公にし難いとか、(本来は存在しないはずの)制約がまとわりついてしまっているのではないか。わたしが”おじさん”を気にしてしまうのは、そういう、目に見えない制約を負わされている哀愁と、自分の興味に対する姿勢の変わらなさ(キラキラした少年心)とが、同時にひとりの人間の中に見えるからかもしれない。

「自分の認識って、自分を取りまく人びとからできているんだなあって、しみじみ思いました」

わたしだっていずれは、嫌でもおばさんという肩書を手にすることになる(認めたくないが、ティーンズから見ればわたしは既におばさんだろう…認めたくないが…)。それは他者から見たわたしの印象だ。もちろんわたしはわたしのことを永遠の十八歳と思っていてもいいのだが、自分という人間が心身ともに女性として生まれ、人間社会で生活している以上、他者におばさんとして認識されることはもう、いいとか悪いとかじゃなくて、仕方のないことだと思う。おじさんがいて、おばさんがいて、お母さんがいてお父さんがいて兄ちゃん姉ちゃん少年少女その他諸々、そういうふうに他者を認識することで、わたしたちは、わたしたちの世界を認識している。

わたしの”おじさん”のイメージはどこから来るのか。『大草原の小さな家』のローラのお父さん。テレビの中の国会中継。サングラスでほほ笑む舘ひろし。三屋清左衛門。理不尽な説教をしてくる年上男性。しょっちゅうお酒を奢ってくれた大学教授や職場の上司。わたしより大きな身体で、頑丈で、立派な髭があって、天井の電球を取り替えたり、重い荷物を運んだり、一日中働いて、とても頼もしいのに、車をいじるときは輝くように幼い顔をする父の姿。

他者から自分の認識がつくられるのだとすれば、あなたもまた、他者の認識をかたちづくる一かけらである。面白い時間だった。参加してくれた皆さん、ありがとうございました。(進行役/レッツスタッフ 塚本千花)

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