ありがとう さようなら
※祖父との事を綴った日記のような内容です。
自分のためにその時の気持ちを書き留め、繋いだものです。
それ以上のものはありませんので、ご興味のない方は別の記事をお読みください。
(前の記事の続きです。)
19時に施設に到着。24時間以内にまたここに来るとは思ってもいなかった。
おじいちゃんは昼に移動されたのでこの日はもう逢えない。明日からに備えるために施設に泊まる。
次の日。
おじいちゃんの居なくなった部屋。
抜け殻のベッド。
一昨日までここに居たのに。わたし、ここで手を握ってずっとおじいちゃんを見ていた‥。
そして遺品の整理。
文学少女だった祖母の遺した本たち。祖父もたくさん読んでいた。
特に詩集が多く、祖母も詩を書いていたのでわたしが小さい頃も、宮沢賢治や金子みすゞなどを送ってくれていた。
大量の本から20冊ほど選び、
そして祖父の水墨画教室で培った額入りの琵琶湖富士の絵と、たくさんの写真を譲り受けた。
斎場でおじいちゃんと対面。
一昨日までは暖かく、手を出し僅かに動かしてくれたおじいちゃんが
今はとても冷たくなっていた。
だけど、あの苦しい顔はしておらず
10数年前の遺影の写真よりもずっと若い顔をしていて、
とても数え95歳には見えない。
肌もとっても綺麗。
一昨日まで一緒に居たから
天にいってしまったのが嘘のようだけど、
本当に安らかないい顔をしているので
どこか安堵の気持ちもある。
本当に苦しかったよね。辛かったよね。
おじいちゃんとっても頑張ってたよ。偉かったよ。
柩の中のおじいちゃんを見られるのは残り1時間。
ギリギリまで対面していようと思う。
(‥といいつつ、台風の影響か、警備の人がこないのでおじいちゃんの横に結局5時間居ました。 )
わたしの親も、従姉妹の家族も入れ替わりみんな思い思いにおじいちゃんに会いにきて。
本当に美しい顔なので何度も見にきてしまう。
本当に、本当に、綺麗な姿。
おじいちゃんの生前の話や祖母との話、わたしからしたらひいおじいちゃん達の話などたくさん。歳の近いいとこともおじいちゃんの前で最近の話をしたり、
家族たちみんなで仲良く話をして、おじいちゃんもおばあちゃんも、良かったなーと言ってるかもしれない。
この数日関西弁漬けだったので、イントネーションがうつってきてしまいます。
そして、全ておわりました。
数えで95歳
骨はとっても丈夫で、様々な部位がすごく綺麗に残っていました。
喉仏さまもほぼ綺麗な状態で、
指ぼとけさまも残ってました。
おじいちゃんの骨太を見習いたいなと思いました。
わたしの両親は
自分たちの両親がもうこの世には居なくなってしまった。
(もちろん、心の中で生きていて、見守ってくれているはずですが)
どれだけ心細いだろうか。
どれだけ心に親という存在の穴があいてしまったか。
普段は泣かない父の涙を
わたしは見た。
わたしはこの父を守りたいと思った。
祖父がこの三連休に亡くなり、葬儀を終えた事。
叔父も、従姉妹も、そして父も私も仕事がお休み。皆揃っておじいちゃんを見送ることができました。
そして台風も直撃でしたが、私たちは傘をさすことなく、お通夜をしている間に過ぎ‥式の朝は快晴でした。
おじいちゃんありがとう。
わたしの父も母も、もう65あたりなのでわたしの小さい頃の体力や元気はありません。
歳を重ねる事の幸せもありますが、だんだんと老いてしまうのは逆らえないこと。
親戚に関してもそうです。
遠いから逢えない と言うのは言い訳であり、逢う気構えをしっかり持つことが大事だとおじいちゃんに教えてもらった気がします。
わたしには伯夫婦と叔父、そして伯母がいるので、逢いにいく気持ちの意識をもとうと思いました。
母方はわたしが唯一の姪なので、精神的に大人になったいま、わたしがしてあげられることをして、小さい時に良くしてもらった恩返しをしたいと思いました。
おじいちゃんは本当にたくさんの事を教えてくれました。
もっと早くに、という後悔はつきまとうけれど。
あの夜に手を握ってあげられたこと。
おじいちゃんと色々話せたこと。
おじいちゃんの温もりを感じられたこと。
それを幸せに思って感謝を自分の人生にいかしていくのが、一番のおじいちゃんへの気持ちになるかなぁと思っています。
たくさんの事を教えて、伝えてくれてありがとう。
埼玉から滋賀へ遠出をし、喪主の家族ということで神経をすり減らして居たのでゆっくり休んでもらいたい。
そして大阪の叔父家族もたくさん助けてくれ、父の頼りない部分をサポートしてくれた。
世代的には娘が両親をサポートする側だけれもも
これからも父たち兄弟にはそれぞれの家族の大黒柱として気持ちの上で頑張ってほしいです。
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