余命

余命という言葉は、今まで小説やドラマで良く聞く言葉だった。

けれど今日。たった先ほど、自分のとても身近な言葉になってしまった。

滋賀に住む祖父の話だ。

撮影:1990/10/19

この1.2ヵ月で容態が悪化し、意識もほぼもうなくなっている。

今日宣告されたのは、胆嚢がんで余命2週間ということ。

いままで余命について考えたことはあまりなかった。

もう危ないかもしれない。そんな言葉は祖父母できいていても、余命を宣告されたのはわたしにとってははじめてで。

そもそも人に限らず命は有限なので、いつかは誰もが終焉を迎える。でもその命の有効期限を決められることはこれほど悲しく、無虚感にあふれ、命の重さを感じることなのか。

わたしや、わたしの周りの人たちは健康な方や、病弱であっても死に至る病を患っている人は現状はいない。この一種の落ち着いた環境の中過ごしていると、死に対して少し無頓着というか、死を考えずに、生に対して半ば当たり前に過ごしてしまっている気もする。

撮影:1990/10/20

無宗教なので毎日神に祈る習慣もないし、生に対しての有限を伝えられるとここまで心が臆病になってしまうものなのか。

祖父は今は交流がまったくできないほど動けないし、意識もない。

それでもわたしは、息をしている祖父に一目会うことに力を注がなければという気持ちの波に襲われている。

今も、この時間も祖父は何を想っているのだろうか。

近日中、そうそうに祖父に会いに行く。

もう見られないかもしれないけど、わたしの小さいころおじいちゃんと遊んだ時の写真をプリントしていくね。



(祖父母という言い方やおじいちゃんおばあちゃんという言い方が混ざっているのは、気持ちの入り方で分けています。)

滋賀と埼玉。距離を感じて3歳の時に遊んだっきり全然会いに行かなかったわたしたち。電話だけで、手紙だけで。おじいちゃん孝行あばあちゃん孝行ぜんぜんしてあげられなかったね。

滋賀のおばあちゃんが亡くなった時はわたしは仕事で台湾だった。亡くなったことは台湾から帰国した報告を母にした時に電話で知らされた。

北海道のおじいちゃんは私が3歳になるときに。家族で闘病している祖父に会いにいったが、落ち着いてきたので飛行機で埼玉に帰っている空の上で息を引き取ってしまったそうだ。お葬式も記憶が断片的にしかない。

北海道のおばあちゃんは私が急いで一人で飛行機に乗り込んでついた時には棺に入っていた。

北海道っ子だったわたしは北海道のおばあちゃんとの思い出はたくさんあるが、滋賀の祖父母の思い出がほとんどない。電話口でも聞き取りにくい関西弁が妙に他人感を感じてしまって敬語でしか話せない関係だった。

撮影:1990/10/19

滋賀のおばあちゃんは文才がとてもある人だったが、結婚を期に一切やめてしまった。なのでわたしが美術やグラフィックデザインの学校に進学するときに、やりたいことを一生懸命学びなさいと教えてくれた。

北海道のおばあちゃんも文才があり、北海道新聞になんども作品を載せていた。

滋賀のおじいちゃんも絵が上手で、今生活している終身介護の部屋には琵琶湖と琵琶湖富士の自分で描いた上手な絵が飾ってあったように思う。

思い出があっても少なくても、わたしは祖父母から目にみえないたくさんのものをもらっている。


ありがとうを伝えなければいけない。


2017/9/12

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