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シャーロックホームズはたぶん金縛りとかに遭うタイプの人間だと思う

  金縛りの典型的イメージといえば何だろうか。浮遊感、自分を外から見ている感じ、知らない女の人がボソボソと耳元で呟いている、とかだろうか。かくいう私は金縛りになど一度もかかったことがない。生来、鈍感で何も考えないことをモットーにしていることが関係しているかどうかはわからないが。


  けれどもわたしなりに金縛りというのがどういう現象かと考えるきっかけになったことはあった。それはありきたりだけど勉強というものがきっかけだった。高校三年生の頃のわたしはそれなりに大学受験に向けて頑張っており、特に数学に関しては人並みかそれ以上には勉強していたように思う。数学というものは登山に似ている。厳しい岩肌を掴み、全精力で自分の体を引き上げる。その時にパッと視界が開けて一つ高いところから世界の姿を見渡すことができる。


  わたしは数学の問題を解く際によく独り言に出しそうな勢いで、脳内であーでもないこーでもないと身振り手振りを交えて自分と会話する癖があった。これはやまびこに似ている。「やっほー」と自分の精神空間に声を投げかけてみると、声が世界の山裾まで響き渡って帰ってくる。この反響を確かめることによっていま解いている数学の問題、という山の地形を確かめる。そして、その結果からより登りやすく、適切だと思われるルートを導き出していく。そうして自分の手近の岩を掴んで少しずつ山のルートを開拓していき、答えという頂上を目指すのだ。登山道にはものすごく簡単な道もあれば、険しく厳しい、人が通ることを阻むような道もある。時には道が途切れていて答えに辿り着けずに迷子になることもあるし(数学の未解決問題に何十年も取り組んだ挙句死ぬ人とかもいる)、そうかと思えばひょっこりと答えにたどり着くこともある。(まあそんなラッキーそうそうないが。)


  ところでみなさんは、数学は大人数でやると楽しい、ということをご存知だろうか。わたしはこのことを高3の頃の塾講師に教えてもらった。孤独に1人数学山の登山道を登る時、人はまさにパスカルの言う「考える葦」状態でちっぽけな存在にすぎない。けれど個人個人が自分の登ってきたルートについて話し合い、同じ山の地図をみんなで作っている時ほど楽しいことはない。山のどこそこの部分は虎が出る、だとか、あそこの部分は登りやすいだとか言って、なるほど自分の登っていないそのルートはそんなふうになっていたのかと教え合う。そして山の全容を解き明かした時、それが真っ白い地図上に色彩を持って広がって、高い山から遠く最果てまでの景色が一望できるのだ。このとき一緒に数学を解きあった人たちは一緒に山を登って苦労を共にした仲間である。達成感と心地よい脳疲労、そして連帯感。多分数学をやっている人間はこういうものが欲しくて数学山に挑むのだと思う。
 

   ここで少し関係ない話をする。最近の世相として「時代の流れが早い」「誰も先を読めない」という言葉がよく使われるが、これは本当に大変なことだと思う。情報化社会の進展によって、世界にどんどんと複雑なルートを持った山が生成され、全ての道を把握することはもはや不可能になっている。1人1人はちっぽけな私たちは、お互いに手を取り合える関係を築けなければ厳しい山肌で迷子になってしまうこともあるのかもしれない。


  閑話休題。そして表題の件について話したいと思う。わたしが金縛りについて考察するきっかけになったのは、それも高三の頃の数学のテスト中だった。そのテストにはわたしがすでに解いたことがある問題の類題に加えて、まだ解法を知らない問題が問題用紙の末尾の方に出題されていた。


  その時わたしは、限りある回答時間というリソースをフル活用するため、マラソンランナーのように自分に叱咤激励をして筆を走らせていた。試験時間60分中の40分が過ぎる。解けそうな問題にはあらかた手を付け、あとはケアレスミスによる計算間違いを見直して得点を稼ぐか、解けていない問題に改めて立ち向かうか。そう思っていたわたしの目に、テスト用紙の隅っこの方に記された問題文が飛び込んできた。2、3行で簡潔に示された問題文は、けれども参考書の類題ではお目にかかったことのないものである。
「何だこれは…?でもあの解法とあの解法を組み合わせれば何とか解けそうだな…」
そうわたしは脳内でつぶやいて5分ほどの時間をその問題に当てようと決めた。進みゆく秒針は残酷で平等である。わたしは初対面の問題の存在に面食らいながらも、自分の中にある解法を組み合わせて問題構造との対話を深めていった。数字が頭の中で飛び交い、これでいいのかとわたしに問いかける。それをバッサバッサと薙ぎ払って問題を解くわたしは、いつしか頭を微かに左右に揺らし、実際に自分の体をぐるぐるさせながら問題に向き合っていた。周りの人間からすれば本当に良い迷惑である。この時わたしは頭の中にあるデータの渦に沿って自分の体を動かしていたのであった。


  全精力を傾けて問題の把握に努めていたわたしは、いつしかたくさんの歯車を自分の脳内で稼働させ、そして”全てが見えた”のだった。

こんな感じの映像が実際に頭の中に流れた

それは自分の姿を鳥のように上から眺める経験だった。冬の薄ら弱い太陽光がさす教室で、同じ問題を解くクラスメイトたち、それに紛れて必死に解答用紙にかじりつく自分自身の姿をわたしは紛れもなく俯瞰していた。この時わたしは
「あー金縛りってこういうことなんやな」
と納得したのだった。


  おそらく金縛りに合うような人たちというのはある程度頭が良く、論理肌なのだ。そういう人たちがふとした瞬間に自分の脳のリミッターを外してしまい外部情報を不必要なまでにたくさん取り込んでしまう。テストという極限下で意識的にデータに酩酊している今のわたしよりも、無意識な彼らはずっと無防備だ。だから自分の体を思うように動かすこともできず、ただ怪奇現象としてその状態を受け入れるしかない。それまで幽霊など信じたこともなかったわたしは、初めて出会う未知の経験にただ不思議さを感じながらそのような考察を繰り広げたのだった。



  テストが終わって徐々に酩酊状態が覚めると、心地よい虚脱感と空腹が残った。そしてそれ以来わたしはこのような経験をしていない。鈍感で本能派のわたしがこのような経験をしたのは、高三の受験間近のテストという追い詰められた状態で全ての力を振り絞ったからこそだったのだろう。あのテスト以来行き当たりばったりの生活しかしてこなかったわたしには、ついぞ金縛りは起こらないでいるのだ。多分シャーロック•ホームズのようにデータとサイエンスで戦う系の人間にしか金縛りは起こらないのだと思う。19世紀イギリスの架空の登場人物に多少の同情を寄せながらわたしの18歳の冬は過ぎて行ったのだった。

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