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「推し」に認知されたくない

  わたしは「推し」に自分の存在を知られたくない。できることなら陰から見守り、時にはニヤニヤしながら癒されていたい。


  人間は社会生活を送る上で大なり小なり「推し」を作る機会がある、とわたしは思っている。2010年くらいからのオタク文化の盛り上がりで、この「推し」という概念もずいぶん人々の間に浸透したのではないだろうか。対象を崇め、アイドルのように接する。これは単純に楽しいし、それに推すものは人間じゃなくてもいい。かわいい動物や空想上の存在を「推し」にして、日々の生きる活力をもらう。これも十分健全なことだと思う。


  ここで本題だが、「推し」に自分をどう思ってもらいたいかという態度は人によって千差万別だと思う。ここではわかりやすくアイドルとファンの関係を仮定してみよう。例えばTwitterの存在によってより可視化された厄介オタクのような人たちは、推しに凶暴なまでの執着を見せ、目立つことを厭わない。厄介オタクとまではいかなくても推しの缶バッジだらけの痛バを作って練り歩いたり、推しの顔をプリントした法被でイベントに参加したり、というような派手な推し活をして認知されたら嬉しい派の人たちは一定数いる。


  一方でできるだけ相手に自分の存在を気取られず、まるで壁に張り付く忍者のように相手をただ見ていたいという私のような人間もいる。こういった人間は得てして保護者面オタクになりやすく、面倒くさくないかと言われればそうでもない。ちょっと前にvtuberのアクシア•クローネという人が「母親面のコメントがきつい」といってにじさんじを去ったけれど、これは明らかにインターネット時代の弊害だなあと思う。わたしのようにネチョネチョとした感情を持った人たちの気持ち悪い意見が実際に「推し」に届いてしまう。もしインターネットがない時代だったらこういう人たちはただちょっと根暗なただのオタクとして認識されていただろうし、実害もないのでほっておかれただろう。


  それにわたしの中にも認知されたい欲が皆無なわけではない。認知「されたい」欲と「されたくない」欲はどちらもわたしの一面であって交互に顔を出す別の自分なのだ。どっちの欲の方が強いかは人によって違う。けれどどっちかの欲しかないという極端な人間は多分そうそういないはずだ。


  人には人の乳酸菌、推し活のやり方も人によって無限大である。ただ私は自分の胸の中に「推し」という光を灯して、それを気取られないように日々を乗り切っていくのが自分の道だなあと最近思ったのだった。

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