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推理小説の犯人がどうしても読めてしまう問題

  推理小説を読んでいると、7割くらい読んだところで「あっ、絶対この後こういう展開なるやん」とわかってしまうことがある。これは私の洞察力がずば抜けているからというわけではない。


  ノックスの十戒というものをご存知だろうか。これはイギリスの小説家ノックスが発表したミステリーで守るべき10の大原則のことなのだが、これの1つ目に
「犯人は物語の序盤に登場していなければならない。」
というものがある。私が今まで読んだ大抵のミステリもこの原則に忠実で
「犯人はこの中にいる!」
というお約束の展開が守られてきた。終盤にいきなり出てきた隣の家の田中さんが犯人だ、とか言われても誰やねんそれとなってしまうからこれは当たり前と言えば当たり前なのだが。だけど、このノックスの原則を守るとどうしても犯人が絞られてしまう。登場人物が少ければ少ないほどこの傾向は顕著で、読者にわかりやすくしようと思うとどうしても犯人の目星がついてしまう。わたしはこれを推理小説のジレンマと呼んでいる。


  ある程度犯人が読まれたとしてもハラハラドキドキさせることは可能だ、というのもわかる。登場人物の迷い、葛藤、真理を追い求める頭脳戦こそがミステリの醍醐味だからだ。とはいえエンタメとしてミステリを消費している以上、展開が読めてしまうのは一読者としては面白さが減ってしまうことになる。


  その点、現実世界では犯人が隣の家の田中さんであったとしても誰も怒らない。まあこの場合ジャンルがミステリからサスペンスになってしまうが。そういう意味ではやっぱり現実世界というのはいちばんのエンターテイメントなんだろうなあと思う。事実は小説より奇なり、とはよく言ったものだ。私たちはいつでも犯人が読めないミステリ世界でワクワクしながら生きていることになる。これはある意味ではラッキー、見方によればアンラッキーだろう。


  たくさん推理小説を読みすぎると、だんだんこういう展開になるのかもしれないなという予測がついてしまうようになる。あまり推理小説を読まなかった頃の自分に戻って新鮮にワクワクする気持ちを取り戻したいなあとふと思ったのだった。

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