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Twitterで祇園祭のツイートがバズっているのを見た

  京都の祇園祭は日本三代祭のうちの一つだ。毎年その時期になると京都にはものすごい数の人が訪れる。私が子供の頃は夏でも今ほど毎日真夏日ではなかった様な気がするけれど、それでも祇園祭に訪れる人混みに混じって歩くとどこに行ってもひといきれで、汗ばむ肌に服が張り付いた。


  景観条例によって低い建物しかない京都の町並みは、高くひらけた空に瓦屋根の建造物が連なる独特さがある。碁盤の目に沿って道沿いを歩くと吸い込まれそうな気持ちになるのはこの独特な街並みも一つの要因だろう。特に祇園祭の人波をかき分けて京都を彷徨うと、どこまでも続く祭りという異空間に呑み込まれたような錯覚に陥る。  


  しかし実際のところ、祇園祭の人混みはかなりなものなので、地元の人間はむしろその混雑を嫌ってあまり家から出ていないことも多い。私も例にもれず祇園祭の時期にはしゃいで遊んだ記憶は多くはないが、それでもときたま家族と連れ立って神社に詣でることなどもあった。学校の知り合いにあったら恥ずかしいなあなどと思いながら、親に手を引かれて参道を歩いたことは今でも覚えている。吹かれる柳を尻目に川沿いなどを歩くと、江戸の頃に浮世絵を描いた絵師も今の私と同じようなものを見ていたのだろうなと感慨深い気持ちになるのだった。


  子供の頃の私は世界が怖いものだらけで、早く大人になって怖いものが少なくなればいいなと思っていた。その夢が叶ったいま、うちわを仰ぎながら祭り囃子の中を練り歩いても、子供の頃ほど繊細に畏怖と高揚を感じることはない。大人になった今でも祭りは楽しいけれど、私にとっての祇園祭は今でもあの子供の頃に感じた祇園祭のままで、それは宝石箱の中の宝石のように大切にしまわれていまも私の胸の奥底にあるのだ。

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