刀の鑑定家「本阿弥光徳」
刀は現代に至るまで様々な格付けがされてきました。
その格付けには「折り紙」という物が刀の証明書、鑑定書として重要な意味を持っていたわけですが、刀を鑑定してその折り紙を発行していた「本阿弥家」もまた日本刀の歴史とは切っては切れない関係にあります。
そんな本阿弥家の1人、本阿弥光徳が主人公の漫画「本阿弥名刀秘録」が面白かったという記事を昨日書いたのですが、私自身そもそも本阿弥光徳の事は「本阿弥家の中でも有名な人」くらいなイメージしか持っていなかったので改めて調べてみる事にしました。
(※今回の記事は「本阿弥家の人々(著:福永酔剣)」を参考に書いています)
①本阿弥光徳の経歴
1554年 本阿弥宗家の9代目として誕生。
1592年 「日本鍛冶集」を米沢城主、木村吉清に贈る
1596年 秀吉から池田輝政を通じて刀剣極所と折り紙発行を許可される。折り紙に使う銅印もこの時拝領。
1600年 豊臣家の蔵刀目録を作る。本阿弥又三郎と署名。
1607年 倫光を拝領。この時は松田三郎兵衛と名乗っている。また、山城国葛野郡鳴滝村の砥石山の運上(税金)を取る権利を豊臣家から与えられる。
1615年 江戸への移住を命じられる
1619年 64歳にて死去。墓碑は妙法寺と法華経寺に現存。
(画像出典元:note アイドットデザイン)
②光徳の書いた刀剣書3つ
・光徳刀絵図
押形ではなく絵図。つまり刀を見ながら描いたもの。
1588年に石田三成に進上したのが始まりで、その後も毛利輝元や複数名に進上したとされています。
以下の刀絵図集成は1588年に出したものから掲載刀が8振も増えていて刀名も国別にしてあるのが特徴。
掲載刀も若干の入れ替えがされていて、新しく追加されたものとしては「切刃貞宗・長義・正広・正家二振」。
(画像出典元:鋼月堂 光徳刀絵図集成 (1970年))
・日本鍛冶集
刀工を国別に挙げた銘鑑で、1592年に出羽の米沢城主、木村吉清に贈ったとされています。
・本阿弥光徳六十六ヶ条
近衛家からのお尋ねに対して答えたもので、内容は「小脇差多ク有ル物」や「直刃物」など66項目に分けてそれに該当する刀工名を並べたもの。
③光徳は剛直だった?
「本阿弥家の人々(著:福永酔剣)」に面白いエピソードが書いてありましたので紹介します。
「ある時、光徳は家康から自慢げに相州正宗の脇差を見せられた。そして、これは足利将軍家の重宝で、足利尊氏の古い添状もついている最上家伝来のものだ、と説明があった。それを拝見して光徳が、これは焼直物と申し上げた。家康が不興げに、どうしてそう言うかと訊ねた。光徳は「尊氏は目利きではないから、添状は何の役にも立たない。そして、そのころ正宗の刀はまだ新身です」と声高に答えた。それが家康の勘にさわって、それ以後お召しがなかった。
このように光徳は剛直で、融通の利かないところがあり一族からも苦情が出ていた。一族のものが正宗などを掘り出してきた場合、大部分のものが、これは正宗に極めてよいと思っている場合でも、光徳は一段下げた折紙をつけるので、一門のうちから不服の声の出ることが度々あった。
(「本阿弥家の人々 著:福永酔剣 P12」より引用)」
先に挙げたマンガ「本阿弥名刀秘録」でも剛直な人という印象が伝わってくるような描かれ方でした。
「本阿弥家の人々(著:福永酔剣)」によると、当時、本阿弥一門の中には生活に困り不正を働く人もいたようで世間の非難を浴びていたようです。
そんな中だからこそ光徳は本阿弥宗家として権力に完全に屈せず、ぎりぎりの駆け引きをしながら刀の評価を正当にしようと試みていた人なのかもしれませんね。
因みに光徳の折り紙は現存していないという衝撃。
ただ、光徳が極めたものに埋忠家が金象嵌を施した「光徳象嵌」は現在も珍重されていたりします。
こういった象嵌部分もよくよく見て見ると歴史が感じられ面白そうですね^^
(画像出典元:鋼月堂 稲葉江・郷義弘の代表作)
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