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「辻斬り」と「切捨御免」の違い

①辻斬りとは?

武士などが街中などで通行人を刀で斬りつける事を言い、当時から犯罪行為と見なされていました。

②いつ頃あったのか?

戦国時代から江戸初期にかけて幕末といわれています。
江戸初期はまだ戦国の殺伐たる気風がまだ充満しており、江戸市中で横行し治安を乱しました。主に旗本の若侍の仕業とされています。
斬り殺された死体が武家屋敷前に転がっていたこともあったそうで、幕府は武家地に辻番を、町地に自身番を設置して警備させたとの事。
あまりに頻発するので1602年に徳川家が辻斬りを禁止し、犯人を引きまわしの上で死刑にするという厳罰に処する事にしました。
また、1682年に生類憐みの令が設けられたことで江戸の武士や町人に鬱憤が溜まり一度増えますが、生類憐みの令が撤廃されると辻斬りも徐々に減っていったようです。

幕末は薩摩藩によるものが多かったようですが、歩行しながら居合斬りする為、相手は対応する事が出来ず警護を2人付けた幕臣ですら表情に全く動揺が無い状態で殺害されたので気づかれなかったことが「西郷隆盛一代記」に記されているようです。

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③なんの為に辻斬りをやったのか?

・刀の切れ味を調べるため
・憂さ晴らし
・金品強奪
・武芸の腕を試すため

他にも個人的な恨みなどもありそうですが概ね自己都合によるものと考えられています。

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④切捨御免とは?(辻斬りとは違う)

辻斬りは犯罪行為ですが、一方で「切捨御免」は武士に認められた特権であり幕府のもとに認められた法です。
武士が耐え難い無礼を受けた時は、斬っても処罰されないというものでした。
では耐え難い無礼とは何か?
個人によって相違があったと考えられますが、幕府や藩によって認可された無礼は、武士に故意に衝突、妨害行為などのようです。
恐らく実例の方が分かりやすいので後程エピソードを紹介します。
(町人の中には度胸試しのためにわざと武士を挑発する言動をした人もいたらしい)

切捨御免には、武士がされた名誉棄損の回復と、命を脅かす攻撃から自身を守る正当防衛という2面が含まれてました。
因みにこの切捨御免という言葉は江戸時代のものではなく、当時の史料では「手討」や「打捨」と表現されています。
なお切捨御免は明治4年に廃止されています。

・切捨御免のエピソード1

尾張藩家臣、佐平治は傘をさして路上を歩いている際町人と突き当たった。佐平治が咎めたにもかかわらず、町人は無視してそのまま立ち去ろうとしたので、佐平治はそれを無礼とみなし町人を手討ちにしようとした。
佐平治は何も持っていない町人を手討ちにするのは不本意と考え、自らの脇差を相手に渡して果たし合いの形式をとろうとしたが、町人はその脇差を持ったまま逃げて、「佐平治を打ち負かしたぞー!」と触れ回った。
悪評を立てられた佐平治はやむ無く書置を残して出奔し、武士の体面を守るために町人の家を突き止め女子供に至るまで撫で切りにした。
(参考:wiki

・切捨御免のエピソード2

宝永6年、戸田内蔵助の一行が町を通過した際、町人が偶然に行列を横切ろうとしたので、お供の者がそれを咎めると、町人は逆に悪口を言ってきた。
お供が町人を掴んで投げ飛ばすが、町人は更に悪口を言ってくる。
籠の中からそれを見ていた内蔵助は町人の切り捨てを命じ、町人は無礼討ちにされた。
後日この事件を幕府に届け出たが、お咎めは無かった。(参考:wiki

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(画像転載元:徳川美術館 福君江戸下向行列図


⑤終わりに

他にも新撰組で有名な幕末志士の芹沢鴨は、大阪で力士と喧嘩になり、これを切り捨てたが、切捨御免として届け出ていた記録もあるようです。
武士でない人からすれば随分と勝手な法律を作ってくれたものだと今なら震撼しそうですね。


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