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産まれてくる我が子へ思うこと

今日は出産予定日だ。しかしながら、今のところ産まれてくる気配がまだない。


予定日とは妊娠40週0日目のことであり、その日ぴったりに産まれてくることは稀だそうで、初産なので予定日超過もよくあることみたいだが、
37週を超えてからいつ産まれてもおかしくないと言われていたので、この1ヶ月常にソワソワしっぱなしである。

わたしがそんな心持ちでいるのを察してなのか、赤ちゃんも産まれる準備ができてないみたいで、
「母であるわたしがこんな精神状態じゃいかん!どーんと構えてなきゃ!!」と自分に言い聞かせている次第だ。


でも、きっと産まれたら文章書く余裕もなくなると思うから、今のうちに我が子に馳せる想いを綴っておこうと思う。



約十ヶ月前、まさか自分に新たな命が宿るとは思ってもいなかった。

こんなことを言うのもどうかと思うが、妊娠する前のわたしは、子どもが欲しいのかどうか、よく分からなかった。

ただ、幼い頃から?思春期からか?漠然と“わたしは子どもを産むもしれない女性である”という自覚はあった。

しかしそれは、生物学的に女性にしか出来ないからという理由であって、誇りや憧れがあった訳ではなかった。
むしろ、様々な環境的背景から“出産が女性にとっての人生でないし、幸せだとも限らない”と考えていたし、そもそも自分がそれを可能な身体なのかも疑問だった。

だから、わたしは結婚が決まった時点で、その先に出産、子育てをあまりリアルに想像していなかったし、周りから「次はそろそろ子どもよね」などと当然の如く言われるのが嫌で、避けてきた話題でもあった。

以前、高瀬隼子さん著者の「犬のかたちをしているもの」という小説を読んだことがある。
主人公は卵巣の病気を抱え、付き合っている彼とはセックスレスだったが、ある出来事をきっかけに“子ども”という存在について考え始める。
産むのか産まないのか、産めるのか産めないのか、自分はどうしたいのかで葛藤する描写に共感できるところが多々あった。

ただ、頭で色々考えてるうちに歳は勝手にとっていく訳で、
もし今子どもを産める身体と育てれる環境があるなら試さない手はないのでは?と思い始め(明日はそうじゃないかもしれないから)
それによその家庭を覗きみる中で、子どもがいる人生も面白いかも?とも思うようになり、ゆるゆると妊活がスタートしたのだった。


すると、まさかのすぐに妊娠が発覚。あまり真剣に排卵日を確認してた訳でなかったので、こんなにも早く出来たことに驚き(今では尊いし有難いことだし、奇跡の子だと思っている)と同時に不安もやってきた。

何故なら、自分が子育てするイメージが持てていなかったからだ。
いつも自分のことに必死で人の面倒をみることに慣れていないし、何より、子どもは親の鏡だと思うのだ。
わたし自身が子どもの見本となれるような姿を魅せられるか、自信がなかった。

それでも子を作るも産むも、親であるわたしたちの都合であり、責任があるからこそ背筋を正さねばと思うのだけど、
まず第一に無事に健康に産まれてきてくれるのか、そして産まれた後の子どもの人生を全て背負うことができるのか不安だった。


しかし、そんな不安をよそに、わたしのお腹の中の子はすくすく育っていった。お腹は面白いほど丸く大きくなっていき、胎動も感じるようになった。

健診のエコーで赤ちゃんの様子を見ると、ピコピコと懸命に動く心臓やまだ数センチくらいの手足を動かしているのが分かって、
この子の命を大事にしたいという気持ちが込み上げた。自分がこんな感情を抱く日が来るとは思わなかった。

父性より、母性の方が早く芽生えるとよく言われるのは、きっとこの十月十日間、我が子と一心同体で過ごしている所以なのだろうと思う。



そんな運命共同体の子に対して、今思うことは、とにかく無事に産まれてきて欲しい。
それだけである。

出産に恐怖がないかと言われると嘘になるが、無事に産まれてきてくれるならばどんな痛みにも耐えようじゃないかという覚悟はある。(産みながら、あーやっぱ無痛分娩が良かったーと思うかもしれないが…笑)

とにかく初めての共同作業を何とか成功させたい。その一心である。

お産は命懸けと聞くので、わたしも赤ちゃんも必ず無事な保障はないからこそ、今の気持ちを書き留めておこうと思った。


大好きだよ。会えるのを楽しみにしているよ。

突如作ったジェンダーリビールおにぎり

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