猫娘曰く。390-死の宣告

May 5, 2022

はぃ。黒椛です。

今回はブラック・メープル・プリーストとして吐き出しますよ。光を差し込めるものならしてみやがれ。

死の宣告についてどう思われます? 意外と身近なところにゴロゴロしていたりしません?

よく聞くのは「余命半年です」など。だいたいこれが大半を占めるのではないかな。ほかに聞いたことある?

わたしの考える死の宣告の一部‥

  • 「管理者」からの宣告

  • 憎しみからの宣告(殺害)

  • 悲しみからの宣告(自殺)

  • 解放 →

  • 無関心 →

  • 希死念慮 → 計画

いつ「死」を迎えるかはある程度決めることができるってことだね。予告するかしないかは自由。どうせ見つかるのだから。知ってたって知らなくたってどうすることもできないよ。

遺書や遺物を残すのは大事だね。なんて言ったって、この物理世界に爪痕を残すことができるのだからさ。そういう人は何かしら意味をもって残しているんだ。小さなことから大きなことまで。憎しみから希望まで。

残さない人はどうだろう。もう「諦め」なのか、「失望」なのか。両者は似ているようで全然違うよ。

で、生きることに何の意味がある。意味は概念でしかない。概念は考え方の区別。ほら、「生きることに意味はあるんだ」とか言われたときどう思うか知ってる?

「一体、何を知ってるの?」

って思うんだよ。それはそうだ、わたしの本質的思考をそんな簡単に理解されちゃたまったもんじゃない。

自分の意味を人に押し付けるな。そういうことなんだ。いっそう拍車をかけるだけでしかない。本末転倒。人が自分を中心として考えていることがよくわかる瞬間でしょ?

そういう「意味」では宗教は絶対的な本質を提供してくれる。ただし、目の前に「死」があるのと同義でもあるけどな。盤石か? 脆弱か?

「無の境地」、笑わせるな。否定はしないけど「無」だよ? ダメじゃんか。

「先人の知恵」、意味を持たない者にはただの鉄クズ。

「導く人」、道はない。

どれも自分の持つ「意味」と共鳴するから成しえるもので、暗闇の中、反響するものがない、声も目の前で掻き消える。足元はよくわからず、湿っているのかどうかも。そんな所にいるわたしに届くものはあるのだろうかね。

「死にたい」

自然と発せられる思い。

「ちょっと、死んでみようかな」

まだ、ここまでは来ていない。

気持ちだけじゃ身の回りの整理なんかできっこない。「死ぬ気の覚悟」とはほどほど遠い。だから「死んでみよう」でいなくなるのは勿体ない。

這いつくばってでも何とかしろ。

悉く書を信ずれば則ち書無きに如かず