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世紀末の世代に想いをよせる太田省吾の世界

太田省吾の世界観とは何か何も知らないがその脚本の舞台が京都の学生劇団によって上演されていた。観に行く。
舞台美術、映像が世界を創る。20世紀末の独自の空気。文庫本の目次と引用。世界に色があるなら灰色にもならない白色。間に繰り広げられる生命や本能や哲学に関する話。日常の何気ないシーンを切り取った、されどあの時代特有のドラマがかった場面進行。肉体の速度が緩やかに進む世界。無邪気に愉しむには分離、場面の切り取りが不適切な映像。今までの鑑賞方法では座席を占める意義に不自由さを覚えるような作品だ。近づいたところで見えない。離れて考えよう。
私の両親の青春は90年代。僕は世紀末に産まれた。僕の両親の趣味。
この時代の感覚、人が歩く感覚。生きている感覚。人間として空へ逃避行ではあるまい。人間として海に沈むわけではない。人間として都会で内臓がシャッフルされて、脳にカビが生えたかのような世界。社会と己。社会に泳がされる生命。言葉や愛に対するエトセトラ。社会に溶け込む事、皆んなと生きて行く事。その倫理、論理のなかで踊る事に至らない別時代の感覚。その世代の生きやすさ、生きづらさが別時代の人間たち、未来平成令和、過去明治昭和にサンドイッチされて板挟みに合っている世代。世代と世代との軋轢そのもののその世代の素直な切り取りが行われている作品のように映りました。
僕があの世紀末を生きた世代と対話したときに生じる話しやすさと話し辛さ。それに纏わる感覚に対する答えの様な情理。

理解しづらい世界を認識できるまで読み込んだところで、繋ぎ合わせたところで自身が予想する世界に対する答えはなく、なにか耐え難い薄さが待っている予感がします。然しまた別の角度で僕には信じられない様な人や世界に対する情念、思いやりが『↗︎ヤジルシ』にはある様に思います。それこそあの年代、この世界を生きる人々のメッセージで、僕もまた受け止める思考を巡らさないといけないな。そうする事でこの世代の人たちと腹を割ってボクは話せるようになれる。そんな気がする。

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