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赤テントの偉大で愉快な冒険

美しい映画をみたのだと実感するのは見る前と外の世界の明るさが違うとき。同じ色から違うモノを見いだすとき。
唐組「泥人魚」の世界は見出しあぐねる人間観を持つ人々が彼等の倫理観をそのスタイルに圧迫感を前面に押し出してこれでもかと云う程我々は我々の条理を以て世界を裁くという事を語っている。この世界を理解する人たちはどうやらこの世界にいるようで、笑みは客席からこぼれ、人々の眼はキラキラと躍動する役者たちに心奪われている。
感動はラストに待っていた。突如数分の為に世界は大きく切り替わる。それまでに綴られてきた文字数を対価交換するには余りにも短い場面はすっとその命を終える。熱情が渦巻く赤テントから飛び出した役者たちはその命をその手で首を絞めると表現するには余りにも憧憬に過ぎる行動で消える。祝祭の町神戸。祈りが籠る海と山に囲まれた港町で打ちあがる舞台。唐組が打ちあげる世界は見出しあぐねる登場人物の世界に対する言葉のアプローチを僕は見出しているのだが、このような世界がこれまでも続き、令和の時代で外から時代と国を越えてやってきた。唐十郎と云う演出家、劇作家はまだまだ旅を終えず、これからも展開し続けていくのだ。その強く異質で普遍的な美しい意思が灯る赤テントは形容しがたいほどの人間愛がある。物語の質についての議論を越えたこの理解の枠組み、私と云うこの世を構成する一つの肉とは別次元で切り開かれ継承されてきた世界に僕は命を見出す。誰であれ何であれ。波乱万丈、言葉が解っても意味が見いだせないところで、確かにいのちが躍動し、自分を含めて様々な世代が目を輝かせて赤テントで芝居を見る、演じる。そういう世界がこの時代に在る事実が何よりも自分のこれからを、我々のこれからを励ましてくれる。
唐組は何よりも、何があっても赤テントで、どんな場所でも、どんな国でも芝居をし続けてきたというその事実が僕の心をほわほわさせます。
些細な人間関係、矮小な自己世界に思春期に苦しんできた私ですが、大人になって演劇と関わる事が出来てよかったです。世界は捨てたもんじゃないって、気づく。
今までで一番客席のキラキラな空気を感じました。それはこの芝居にまつわる様々な人々たちが闘ってきたことの証なのでしょう。
みにいけてよかった。また一つ魂をいただいた。
劇的世界とこれからも共に。
目に焼きつけていきたい。

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