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ユートピアの入り口

雨上がりの駐車場。大和の夜は天国と地獄の境目を予感させる。しゃぶしゃぶを食い終わり知人の車へ向かう男はiPhone8を構える。その風景が男にとって最後のユートピアへの入り口だった。会計を終えた知人が近づいてくる。知人は車の鍵を開ける。共に車へ乗り込む。二人は無言で夜の帰路につく。スピーカーから流行りの音楽が流れる。男は目を瞑る。知人は運転する。町から村へと変わる。電灯の数がガクリと減る。「この辺りで」知人は囁く。「昔若者が死んだそうだ」。それは母親の友人の娘だった。彼女は橋で魚を探していた。トラックが娘に近づいた。娘は振り向いた。その時には何もかも手遅れだった。娘のご両親は死をきっかけに離婚を決意したという。仮面夫婦だったらしい。娘には恋人がいた。恋人は就職を取りやめた。今は何をしているのか誰も知らない。娘が死んだ場所を目にすると其処には地獄と繋がる穴があるのではないかと思い込む。考え込む私を見て知人は車を側道に停める。「貴方はこの辺りで」知人は囁く。「死にたいのではないか」。間違いではない。もし生命を捨てる選択肢が自らに委ねられているのならば、この様なセンチメンタルな気分を味わう場所で終える勇気は男には存在する。然し現実には男の手にはその選択肢は空で天使が握り締めている。更に上空に死神が鎌を持ちその選択肢の手綱を斬るか否かを思案する光景が目に映る。男は天を指差す。知人は空を見上げる。そして納得する。「君も僕と同じで」。知人は囁く。「まだ死ねないのか」。二人は死を祈るという共通項でのみ場を共有する権利を互いに赦していた。二人は生死に纏わる与太話で盛り上がる非常に陰湿な友情を結んでいた。二人は事あるごとに死の可能性を模索していたがいまだに見つかりそうにない。二人の天使と死神はあのような有り様だから。二人は車に乗り込む。ドライブが始まる。まだまだ二人は死ねない。最後のユートピアの入り口が少し前に存在した事を男は気づけなかった。男の死は世界が誕生したときには決定しており、彼は無惨な姿でドブ川で窒息死する予定です。然しそれ以外の死に至る道は用意されている。ソレがふとした時に見る異質に受け止められるあの風景やこの風景。男はそれを人生に於いて何度か目にしたのだが、総てを黙り見過ごした。よって男の死は一本道となった。男はそのことに気づかないまま車の中で目を瞑る。うたた寝で見る夢に理想の女性が現れた。魔性の女。男は額を撫でられる。そして夢に溶け込んでいく。

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