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喋ること、人と話すことをコミュニケーションスキルと呼ぶなら、


コミュニケーションスキルが必要とか大事だとか言うけれど、そういう人達は大抵、元々、話すことが大好きで、人が大好きな人だ。話すことを困難に思っていない。
話すことが苦痛になる人のことを考えていない。
ただ単に、「コミュニケーションをとれ」というだけじゃ、話し下手な人にとっては苦しみだけでしかない。ますます喋りたくなくなる。
話すことを困難に思わない人の中に、喋っていないと体調が悪くなるという人がいる。
あまり喋らない、話すことを困難に思っている人から見たら、嘘だろ?と思うかもしれないけれど、一人で黙って仕事をしていたら、気分が悪いと言って帰る人を何度も見てきた。そういう人は、人との繋がりが大事とか、嫌な人とでも 喋らなければいけないという。
自分は人と喋ることが好きなので、「コミュニケーション能力がある」ということになる。
別に構わないけれど、
世の中には人と喋るのがあまり好きではない、得意ではない人もいる。
人と喋らなければならないと思うだけで気が滅入ってくる人もいる。
自分が出来るから他人も頑張ったら出来るだろうとは思わないでほしい。
話好きでない者から見たら、黙って一人で仕事をしているのが嫌で体調を崩すというのが信じられない。
自分の考えを押し付けないでもらいたいものだ。
このコロナ禍という状況になって、それがよくわかった。
元々、人とのが関わりが上手く出来ない人は、人と距離をとったり、会食がなくなったりして楽になった。一人でどこかへ行くのも、一人で食事をとるのも気兼ねなく出来るようになった。しかし、今まで仕事の帰りに飲み屋で人と話すことで嫌なことを吐き出したりしてたのが出来なくなった人などは、この状況が苦しいだろう。
どちらが良いとか悪いとかいうことではないと思う。
それぞれに出来ることがあるのだから、簡単に自分が出来ることはやったらいいわけで、人に、自分のようにやれ、というのは、もう時代に合わないだろう。
自分に出来ないことを苦しみながらするのではなく、それぞれに出来ること得意なことをその範囲でやれば、WinWinじゃないか。
一人一人がなんでも出来るスーパーマンにならなくてよいのだ。全て自分でやらなくていいのだ。
どうせ、出来ないことをやっても、上手くはいかない。何度もやっていると、出来るようになるだろうが、果てしない時間がかかる。その間苦しむなんて、時間を損している。その間に、自分の出来ることをしていたら、もっと出来るようになるかもしれないし、自分も楽だ。
自分に出来ないことは出来る人に任せればいい。
イジメも「コミュニケーション能力がある」という人達の集まりの中で弾かれたものが、陰で言われたりすることで始まることもある。
それぞれがそれぞれに出来ることをして、認めあって補い合ったら上手くいくのに、と思うことが多々ある。
微かなズレは大きな歪みを生む。
人を追い込んでおいて、あいつはコミュニケーション取れてない。ダメだ、は、ないだろう。仕事を辞める時には必ず理由がある。いきなり辞めるにはそれだけの理由があるのだ。
話すのが苦手な人には接し方もあるのだ。仕事上、上の人はその責任もある。
「コミュニケーションをとれ」という言葉が、コミュニケーションをとっていない。それにも気づいていない。他にも、細々したことにも気づいていない。
次に使う人が使いやすいように、効率がいいように、人が見ていないところで動いている人を見ていない。
自分が気づいたなら、気づいている、この人はこういうことが出来ている。と、「言う」べきである。その上で、こういう時にはこう言うのがいいよと言ってあげる。
こんなこと、言わなければならないのかと思うだろうが、そういう細かい、些細なことが「コミュニケーションスキル」にも入っている気がする。
ただ単に、話が上手い人がコミュニケーション能力があるのではないと思う。
仕事で急に何人も辞めたのなら、残っている人の問題でもある。
全ての人がなんでも出来るスーパーマンであれば、世の中は上手くいくようでも絶対に上手くいかない。何から何まで出来なくても構わない。
出来ない人達の集まりなのだ。
私にはこれが出来る。あなたにはこれが出来る。それでいいじゃないか。
あなたに出来ないことを誰かがやっている。その事が分かってから、コミュニケーション能力を言ってもらいたいものだ。

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