自殺者へ

 高校生の女の子が電車に飛び込んで自殺し、その様子を動画配信していたことが、朝の職場でしばし話題になった。不幸な事情があったに違いないし、10代で死ぬなど勿体ないことこの上ない。だけど意識せず口に出たのは「つまらない子、なんて安っぽい人生なんだろう」という言葉だった。こんなの思うだけならともかく(それでも酷いが)口に出すべきじゃなかったし、全く知らない、事情も分からない自殺者に対して知ったような顔で評価などするべきでもない。頭ではそう理解しているし、自分は被害者や苦しんでいる人の側に立って考えることの出来ない人間ではないと思っていたから、自分の言葉に自分で愕然とした。10代の頃、交通事故で人が死ぬと「人口が減って良かった」風の低レベル発言をしていたのを覚えているが、それはそういうことを言うのがカッコいいような気がしていたからに過ぎず、要するに何も考えていなかったのだ。いい大人になった今自死した少女にこんな感想を持つとは、私は内面ではやはり弱い人間は死んで当然だと考えるていの似非エリート主義者なのだろうか。改めて自分の価値観について考えこんだ。
 自身の感情を顧みてみると、ネットのあちこちに書込みされた「通勤電車が止まって迷惑、死ぬなら一人で死ね」的な気持ちではないし(そもそもその鉄道に乗っていた訳でもない)、「自殺するような人間は所詮成長したってダメな奴なんだ」みたいな元も子もない考えともちょっと違う。一人の人間として、自殺という道を選ぶことへの拒否感。死ぬ決意は勇気とは違う、真に尊いのは生き続ける途を探す姿勢だという、生命力への礼賛のような気持ち。生きるとは全力でチャレンジすべき勝負で、そこから逃げるのは卑怯だという価値観が、どうも自分にはあるらしいことを発見する。加えて自殺映像をインターネットにアップする程度しか思いつけなかった貧しい自己顕示への憐れみと蔑み。とはいえ他人の考えも痛みも実感として「分かる」ことなど不可能だ。自分のこの価値観が正しいと信じている訳でもない、ただ自分にはそういう感じ方の癖があるということだけ。故にこの自殺者に対して瞬間的に感じたのが同情ではなかったのだ。
 仕事しながら頭の半分ではそんなことを考えているうち昼休みになり、いつも通り給湯室でお茶を入れて席に戻ってきてから、今日は弁当を持ってこなかったことを思い出して慌てて外にランチに出かけた。何たる放心状態。そんなわけで今日死んでしまった女の子へ、あなたの行為にオバサンは色々考えさせて貰ったよ。だけどオバサンも他の大抵の人と同様、数日すれば忘れてしまうだろうな。だからやっぱり、10代でかけがえない人生を終わらせてしまったのは、とってもとっても勿体なかったと思うよ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?