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日常を忘れられる旅と、旅に出られる日常と

 旅行の魅力の一つとして、旅の日々のシンプルさを挙げたい。考えなければいけないのは今日、または明日どこに行って何をするか、何を食べるか。気になるのは大抵天気だけ、気をつけることといったら電車やバスの時刻や観光施設の入場時間くらい。着るものは鞄の中の数枚から選ぶだけだし、リュックもスニーカーも毎日同じ。夜は持って行った本を読むか、友人に絵葉書を書くか、日記を書くしかない(私は宿でテレビを見ない。近年はタブレットとかスマホという恐ろしいものが登場し、うっかりネットに接続すると日常生活がどかっと戻ってくるから、用事が無い限り極力接続しないことにしている)。多すぎる選択肢に迷うこと、タスクが終わらなかった罪悪感や、やるべきことを忘れているのではという不安も無い(まあ大抵は)。
 対して日常生活では、情報とタスクは多層的に組み合わさっている。仕事の課題とストレスは言わずもがな。家に居てもやること考えること決めることはエンドレスで、これで全部済んだヤレヤレという時間は絶対にやってこない。だからこそ休みを取る意味がある訳で、生活の場そのものを離れてしまえば、普段気になっているあれこれからも解放される。距離には時間と同じく忘却させる力があるのだから。※
 逆に言えば片時も決して忘れることの出来ない気がかりがあるのなら、遠出しても楽しむどころではない。だから旅に出て日常を忘れられる程度に自分の生活が平穏であること、しばしの中断が許される程度の複雑さに日々が保たれていることに、旅に出るたび誰へとはなく深い感謝の念を覚える。


※T.マン「魔の山」

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