残り

ケチと憐れみの間

 化粧する際、無くなりかけのチークに苦労している。四角いケースの端にわずかに残った粉が巧くブラシにくっついてこない。替えのチークは買ってあるし、ブラシにうまく付かないとたぶん化粧自体きれいにいかないだろうし、たいして高いものでもないのだからケースの四隅に残ったチークは諦めればいいのだろうが、ケチな私はギリギリまで使おうと毎朝努力している。
 チークの小さなカタマリ分の値段より、それを取ろうと四苦八苦する時間の方がよっぽど高いのだし、本当にケチであるならさっさと新品に取り換えるべきだが、実は勿体ないとこだわってしまうのはお金ではなくて、使われるために作られたモノを使うことなく捨てることへのためらい、そのモノを無駄にするのが忍びないという — この場合でいえば残ったチークが可哀相だという気持ちからだ。
 そのようにありふれたモノを不憫に思ってしまう癖がある。ずっと使ってきたのに遂に端が欠けてしまった皿とか、気に入って何シーズンも着たもののそろそろ毛玉が目立ってきたセーターなどは、まだ清々しい気持ちで手放せたりする。長年しっかり使わせてもらって有難うという気持ちが持てるせいだ。でも使われるべきものが使われることなく処分されるのは憐れに感じて気持ちが良くない。可能な範囲で出来るだけ使ってあげるために些か時間や手間がかかっても、それはさほど気にならない。消費されるべく製造されたモノたちへの憐れみは、その商品を生み出した人達の手間への感謝でもあるし、世の万物に対する有難さを日々感じることは、自身の幸福とどこかつながっているという実感もある。そんな私は安価なものを使い捨てていくファストファッションとか100円ショップとかが好きではない。

 そんなわけで私が器の隅に残ったアイスクリームや洗剤の最後の一滴などと格闘してるときは、ケチなのではなく憐れみの心に突き動かされての行為なのだとご理解ください。

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