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未来の自分に親切に

 朝晩2、3匹の地域猫に餌をやっている。中にどうにも慌て者というか頭の悪いのが一匹居て、他の猫にやろうとした餌に横から飛びついたり、餌をつまんだ箸を両前脚で捕まえようと立ち上がったりして、ぶつかった拍子に肝心の餌はどこかにすっ飛んでしまう。おとなしく待っていれば順番に貰えるのに馬鹿だなー、毎日やってるのにちっとも覚えないなー。これが畜生の悲しさっていうやつだよね、と思う(でも他の猫はちゃんと順番を待てるのである)。


 さて世間は新型肺炎でややパニックしていて、マスクの買い占めなんかが問題化している。転売目的などの輩は論外としても、単に買いだめしようと必死になってあちこちの店を回っている人も居る由。非常時には必要な物資は皆で分け合うべきなんだけど、こんな時だからこそ他人のことなんか構っちゃいられない、自分だけが助かればいいという心理になるのは、まあ分からないではない。ただ自分だけ沢山マスクを持っていても、そのせいでマスクを入手できなかった人が電車の隣の席でゴホゴホ咳をしたせいで感染することもあるかもしれず、そうなったらいくら大量のストックを持ってても全く意味が無い。軽い症状があるだけで検査を求めて病院に押しかけてる人もいるらしいけど(本当に居るんでしょうか、自分が最近病院行ってないから知らないけど)、軽い発熱や咳だけの人が全員病院に押しかければ病院の体制がパンクして、いざ自分が本当に重篤になった際にちゃんと医療が受けられなくなる危険性が高まるというのは報道されている通り。要するに買いだめするなとか病院に押しかけるなというのは他人のためじゃなく結局は自分のためなんだけど、目先の利益だけに捕らわれて将来の自分の利益が全然見えない人が世の中には溢れているらしい。The greater good(公共の福祉)って結局は巡り巡って自分の利益になる可能性が高いわけで、文字通り情けは他人(ひと)のためならずなのにね。

 感染症騒ぎに限らず、昨今の社会問題には、今苦しんでいる人が明日の自分かもしれないと考えてみる健全な想像力の欠如を感じるものが多い。苦しんでる他人への思いやりをけちる人というのは、福祉とか親切とかの資源はすごく限られたものでその恩恵に預かれるのは一部の人間だけ、だから自分で取れるだけ抱え込んで、他人にそれを渡すのは自分の損になるんだという感覚があるんだろう。それってとっても貧乏臭いセンスで、貧すれば鈍すの匂いがプンプンする(勿論実際に貧しい人には他者に何かを施す金銭的時間的余裕は余り無い訳だけど、今言ってるのはそういう話じゃない)。まあ税金とか社会資本とか大きな話になると難しいのでそれは置いておくとしても、人間誰かに親切にしたってなにも減りはしないし、自分が発した親切は回り回って別の形で自分に返ってくるものである。何十年後かの自分はそこに並んでるおばあちゃんみたいかもしれないし、込んだ電車でお母さんに抱かれている赤ん坊は、かつて自分もそのようであった姿だ。他人のことを考えること、他者に親切にすることって、未来の自分・過去の自分に親切にすることだとも言える。そう考えたら少し自制って出来ないもんだろうか。


 同じ猫でも仲間が餌をもらってる間じっと待っていられる子もいて、そういう良い子にはちゃんと取り分を与えたくなるから、却って貰い損ねがなかったりする。まあ猫の場合はお行儀が悪い子でも可愛いから許されちゃったりするんだけど、マスクを取り合って大の大人が喧嘩したりするのってもう救いようがない。お馬鹿な猫レベルのふるまいはやめて、未来の自分のために理性的に行動するよう、自分も気を付けなくっちゃね。

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