中華料理を食べに行こう その①

ユーフォで新情報が解禁となった。

おまつりフェスティバルにて発表予定だった情報で、ユーフォラジオの復活に、ムビチケ特典第二弾。なんだあのポーズは。あざとすぎる。

仮にこの発表を現地の会場で聞いていたら、さぞかし冷静さを欠いたリアクションをしていたであろう事は容易に想像がついた。

しかしながら、台風一過。新幹線の運転見合わせを考慮してか、イベントは昼・夜公演共に中止となった。

実を言うと、今回私は人生で初めてのおまつりフェスティバル当選で、しかも昼夜両方受かるというなかなかの豪運を授かっていたのだが、イベントが中止になった事でこの運は御破算となった。

イベントでの新情報発表の余韻に浸るため、土日共に京都に滞在する計画だったが、この中止の発表によって丸2日、予定がぽっかり空いてしまった。



…ように思うかもしれない。



私は前回の上洛にて、『京都の中華』を食べに行ったのだが、なんやかんやそこでは自分が元々行きたかった中華料理屋には行けていなかった。

そして今回、宇治でおまつりフェスティバルが開催されるとの事で、私はここで何としてでも前回の雪辱を晴らさねばならぬと半ば強迫観念のような衝動に駆られていた。


そこへ来て、今回の中止の発表。




食い倒れるしかない。そう思った。




そもそも何故、私が急に京都の中華料理を食べ回りたいと考えるようになったかと言えば、それは単純に普段聴いてるラジオのパーソナリティが京都の中華に精通していて、よくその話を聞いていたからである。

それを受けて、自分も食べてみたい、なんなら、ここで京都に住まう人のみぞ知る中華料理を体験する事が出来れば、京都を舞台にした二次創作をよりリアリスティックに描き出せるかもしれない。

そんな岸辺露伴みたいな動機でもって、私は京都の中華料理を探す旅に出るに至ったのである。



今回はそういう話なので、京都の中華に全く興味がない人はただひたすらに退屈なものになると思われるので、そこのところご了承願いたい。

──────────────────────


レビューに入る前に、今回私が京都の中華料理を食べるにあたって参考にした文献と、京都で育まれた食文化の変遷についてざっくりと概説しておく。

読むのタルいな、という人は、この次の罫線が引いてある所まで読み飛ばしてもらって良い。実際私も自分のまとめ用に書いてるだけなので。


──────────────────────

今回参考にした本は、姜尚美(かん さんみ)氏の著者で、タイトルもその名の通り『京都の中華』という本。

氏は生まれも育ちも京都の方で、風土・食文化を専門にしているフリーのライターである。

その著書によれば、京都は元々、中華などの海外料理店の創業に関しては後発組なのだという。例えば東京に初めて中華料理店ができたのが1879年。横浜が1884年なのに対し、京都で初めて中華料理店ができたのは1924年。約半世紀の遅れをとっている。

その背景としては、京都に御所があり、明治43年(1910年)まで、パスポートだけでは京都に外国人が入る事ができず、それとは別に京都府知事が発行する『入京免状』なるものが必要であった事が挙げられている。
これより以前に、外国人がどこに行き、どこに住んでも良いと定めた「内地雑居令」が公布されたのが明治32年(1899年)、京都に入るのに入京免状が必要無くなったのが1910年。つまり『雑居令』以前の京都では、中華料理など作る人も食べる人もいなかった。というのが理由のひとつとなる。

もうひとつの理由として、京都の花街文化と中華料理との相性の悪さである。

よくよく考えなくても、香辛料やにんにく、鶏や豚などの動物性の食材を多用した中華料理で食後に匂いが残ってしまっては、舞妓・芸妓の方々にとっては仕事に支障を来すレベルの業務妨害である。

京都における初の中華料理店といえば、京都イオンでも見かけるあの『ハマムラ』であるが、ハマムラ創業者の濱村保三氏は、創業当初、祇園近辺でいざ1号店を出店した際にはいたく苦労したそうである。
…てか由緒ある祇園にわざわざ中華料理店構える度胸すごいな。

そうしてハマムラが祇園から少しずつながらも中華料理を発信していくなかで、濱村氏はいわゆる京風中華を語る上で欠かすことのできないキーパーソン、高華吉(こう かきち)氏と出会う。

彼は、広東地方出身の本場の料理人。

19歳で来日し、各地を経て京都へ。ハマムラへ食事に来たのを機に、料理長として迎え入れられたのだという。

彼によってハマムラの中華は"京都風"にアレンジされ、そして戦後ハマムラから独立した彼は『飛雲』『第一楼』そして『鳳舞』と次々に自分の店を作っていった。

その系統は、「鶏ガラと昆布でとったスープ」「薄味」「シンプルな盛り付け」「数を絞ったお品書き」などの特徴を持つ。

彼の作る中華は、ハマムラからの独立後に彼の作り出した中華料理店の集大成と言える『鳳舞』の店名から「鳳舞系」と呼ばれている。

ちなみにこの鳳舞、ロックバンドのくるりの『三日月』という曲のMVにも出ている。
くるりのボーカル岸田繁氏は京都の北区出身であるため、鳳舞系の中華には昔から馴染み深かったのかもしれない。

そして現在、京都人の中華をひっそりと支え続けた鳳舞は、2009年に惜しまれつつ閉店。現在は高さんの弟子が暖簾分けした『鳳泉』『鳳飛』など、いわゆる鳳舞系の店が残るのみである。しかしながら、明確に暖簾分けの立場を取っていなくとも、氏の薫陶を受けた数多の料理人たちが立ち上げていった中華料理店は、京の地の片隅で地元の人々に愛され続けている。

──────────────────────

ここから、一軒ずつ私が食べた中華を紹介していく


●一軒目 『平安』

これは5月の上洛であちこちを彷徨った挙句辿り着いたお店。
ツイッターでも画像を上げた。カラシソバがバカみたいに辛かった。しかしその辛さも不快感を催すものでは決してなく、あんかけに練り込まれたからしが鼻に抜ける瞬間は嫌いじゃない。
高坂麗奈みたいなこと言っちゃった。

そしてこれは呟いてなかったが、えびの天ぷらがフワフワでめちゃくちゃ美味い。色々言いたい事はあるが、ここのえび天は数ある京都中華の中で間違いなく上位に食い込む美味しさだ。


文献によると、ここと同じえび天は白川三条にある『ぎをん森幸』というお店でも供されている。

『ぎをん森幸』の店主は『ハマムラ』と『飛雲』で、『平安』の店主は『第一楼』で長年修行している。
すなわち、この味はどちらも高華吉さんの中華の作り方をベースにしたものであると推測される。奥が深い。


お店は祇園にある雑居ビルの奥まった所にあり、なんだか秘密基地然としている。
開店時間の12時をやや過ぎて中に入ってみると、ご夫婦が開店準備をしており、店内に通される。
やや湾曲したカウンターで肩を並べるのは、私・30代の女性客・50代の男性客。共通項は一切ないが、カラシソバを注文する点だけは、皆一様に共通していた。

辛さの度合いは「中学」「高校」「大学」と分類されており、女性客と男性客は「中学」をオーダー。私はイキって「高校」を注文した。

決して食べられない辛さではないが、ツーンとした辛さが、鼻腔から喉に抜け、腹に収まってもまだ蠢いている。早く消化されろ!

食べていると、「辛いでしょ」と半ば苦笑まじりに奥さんから声をかけられる。「辛いっす」と答えると、笑って誤魔化された。


厨房はカウンターからすぐ見える位置にあり、奥さんが四角い中華包丁でストスト切った具材を、底が丸くくり抜かれた中華鍋専用のコンロ(?)で旦那さんがジャカジャカ炒める様子を飽きもせず眺めていた。

厨房の傍にはタンスが壁に沿って置かれており、変なステッカーや昔の写真、妙な人形も置いてあったと記憶している。

中でもそのタンスで印象に残っているのが、厨房から手が届く程度の距離に「ひみつ」と書かれた引き出しがあった事だ。
何が入っているかも気になるが、それ以前にもうちょっと目立たない所に仕舞った方がいいんじゃないかと思った。

そういうユーモアが散りばめられた場所で、客と話す様子も終始穏やかであった。ほんの一時であったが、私もその輪に加えてもらった気がする。時間がそこだけ止まったようなお店であった。



●二軒目 『鳳泉』
前述した"鳳舞系"の中華で1番代表的な店舗。
実際、ここに来店した際も他のお客の話し声から「鳳舞さん」というワードが聞こえてきた。人に歴史あり、中華も然り、といった所だ。

注文したのは、くわい入りの焼売、筍がぎっしり入った春巻、あんかけ付きのえびかしわそば。

ちょっと食べちゃった


焼売は、細長くて脂っこさがなく、くわいの食感と香りが引き立つ素朴な味。
春巻は、一般的な『外パリパリ中ジューシー』なものとは一線を画し、外皮はシンプルに小麦粉と卵だけをぐるぐる混ぜて作られる。
混ぜた際に小麦粉のグルテンが皮をもちもちさせ、絶妙な食感の卵皮になる。そこに細切りした筍がアクセントとなって、食べ応えのある仕上がりになっている。
えびかしわそばについては、えび・鶏肉・キャベツ・しいたけ・ねぎなど、列挙してみて気づいたが噛めば噛むほど味が染みてくる食材ばかり使われている。それがあんかけによって渾然一体となり、薄味ながらなんとも味わい深い代物になっている。

紹興酒のロックと一緒に食べたが、紹興酒で喉を焼いた後にかしわそばを食べると、あの薄味をより鮮明に感じられる気がする。

まぁそもそも紹興酒そんなに好きではないんですけども。


また、薄味について補足すると、レビューサイトの口コミでは「思ってたより味が薄くて満足感がない」みたいな事が書かれていた。…それはそう。

ただ、この味の薄さも上記の花街の人々が口にするのを考慮しての味付けと知っていれば合点がいくし、なんなら焼売にくわい、春巻に筍というチョイスも、味の濃さで勝負できないのなら食感で、という創意工夫の行き着いた着地点と捉えられなくもない。まぁ完全な妄想だが。


お店の人と喋る機会などは無かったが、私以外のお客もソロの人が多く、文献によればこの手の中華は仕事の合間の昼食にサッと来てサッと食べるのが主流であったため、客層からしてそういうものなのかもしれない。
食べ終わった後、腹の膨らみを除けば食べた余韻はほとんど残らなかったが、それもまた、この店が紆余曲折を経て行きついた"気遣い"のひとつの形なのかもしれないと思った。



──────────────────────



………………長くね??



あと2軒あるが、今日はここまでにしとこうと思う。
明日後半と総評を書きます。さらば。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?