坂本真綾について語る会

あけましておめでとうございます(激遅)

昨年、生でご本人を見る機会を得て、それに併せて彼女のエッセイを読み、またフォロワーさんにライブBlu-rayなどを勧められて、という巡り合わせが重なったご縁で、坂本真綾の楽曲をファーストアルバムから順番に聴く、という贅沢な楽しみ方をした。

せっかく聴いたのに何か思うところはないわけ?という疑問は至極真っ当であろうと考え、ここに自分なりの"坂本真綾評"を書こうと思う。

"評"と書くとなんだかエラそうだが、まぁ感想みたいなもんです。

興味ない人にとっては何それ?な回であると思うが、私が綴る拙い文章で少しでも「どんな人なんだろう」と新たな興味を持ってもらえたら、これほど嬉しい事はない。私の感じた事の10分の1でも伝わって貰えたら幸いである。

全曲はさすがに難しいので、ダイジェストでお送りする。

※追記:ぜんぜんダイジェストちゃうかったわ

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【オレンジ色とゆびきり】
1stアルバム『グレープフルーツ』(1997)より

アルバム内では坂本真綾本人が作詞している数少ない作品だが、ここまでの歌詞が書けるならもう十分では?って感じの曲。

夕日の照らす東京の坂道を自転車で駆け下りながら、想い人への淡い再会の願いを空に託す。サビまでの豊かな歌詞表現が、情景を視界いっぱいに浮かばせる。

"雲から抜け出して
街を包むオレンジ色
あんまり照らすから
涙の跡恥ずかしくなった
急な坂道をたちこぎして
ぎゅうっと目をつぶって乗り切った
せめて
ただ一度だけでも
素直になれたら"

ファーストアルバムで出していい表現力ではないだろ、という気持ちと、この瑞々しい感性は初期作品からしか生み出せないだろうなという気持ちが同居している。
ちなみに、このアルバムであとひとつ彼女自身が作詞したものに『右ほっぺのニキビ』という曲があるが、本人のエッセイを読んでいたらシチュエーションがえらく似ている片思いエピソードがあったため、(あらゆる体験を作品づくりに昇華しとる…)と感嘆していた。

このアルバムの締めくくりが『そのままでいいんだ』になっているのも、なんだか物語性が感じられて良い。

正直な話、こういう作品を聴く(読む)と、4,5年前の自分のつぶやきとか絵とか同人誌を見返したときの、こんな恥ずかしいこと描(書)くなよ、となってしまう感覚を思い出す。無知で無神経な所に自分で恥ずかしくなってしまうのだが、その一方、もう自分はこういう事は恥ずかしくて出来なくなっちゃったのか、と過去の自分との決定的で不可逆な別離を感じて勝手に淋しくなってしまう、そんな曲でした。はい。

【I.D.】
2ndアルバム『DIVE』(1998)より

割と有名な曲。自分を形づくるものは自分の中にあるという事は、当たり前だけどなかなか気づきにくいよね、という趣旨で歌われている。

冒頭に以下のような詞がある。

"強がることと 甘えることは
結局少しも変わらない"

すごい詞を書くなぁ〜〜〜〜〜

最初の頃は(ぜんぜん違うと思うけど…)と思いながら聴いていたが、のちの歌詞と照らし合わせてみると、「『未熟な自分を変えるために自分の外に働きかける』という意味では、どっちもそう大して変わりはない」という意味なのかな、と考えたりしている。

まぁ考察とか読んだわけではないので、個人のいち解釈くらいに思って頂ければよい。ご自身の感性を大切に。

曲中の言葉に倣ってここで考えるのは、自分は"見えない大きな力"に沿って人生を歩めているのかという点。さらに補足するなら、"好きな事を好きだって言"ったり、"堂々として"たり、"心と同じ声"をあげたり。
人生いろいろあるので、起こりうる・行動しうる全ての事に対して、しがらみに囚われず心のままに生きていく、というのは存外難しいが、せめて自分の気持ちだけは、上手く説明ができなくてもなるべく正確に掬い取ってあげたいし、嘘はつかないでいたい。

どうでもいいけど、同名タイトルの彼女のエッセイが『アイディ。』とカタカナ表記なのはなんでかな、と思って調べたことがあるのだが、そういう犬種の犬がいると言うことしか分からなかった。まぁ、それはそれでいいか。

ちなみに、このアルバムの『孤独』という曲はのぞみぞ、およびリズと青い鳥の曲です。よろしく

【Gift】
『シングルコレクション+ハチポチ』(1999)より

坂本真綾の曲で徹底しているところに〈自分と他者は決定的に違っているが、その違いをこそ寧ろ尊重している〉点がある。ように思う。

とか言いつつ、この曲の作詞は岩里祐穂なのであるが…まぁ薫陶を受けていると言えなくもない。

『Gift』では、夢を追う友だちへの"憧れ"と、自分とは違ったその人を支えるため、目に見えない"愛"というものにもどかしさを抱えながら、それでも関わりを持っていく事が歌われる。

そしてその姿勢そのものが、タイトルに帰着している。以下サビ。

"その夢を叶えるため
いちばん大切なものをあげよう
自分をもっと大好きに
なる不思議なmedicine"

無償の愛とはまた少し違った、夢を持つ相手にGiftを与える事で、自分自身も好きになれる関係性というものは、得難く尊いもののように思う。

ユーフォでいうと、くみれいみたいな関係性がそれに該当する。ふたりも愛の告白してたしね。

もちろん、これに茶化す意図はなく、異性→異性、同性→同性、親→子、子供→大人、生者→死者など、愛の形は個人の数だけ無数に存在する。

ひとつの言葉でも、それが持つ意味の広がりはどこまであっても良い。そういう良さのある曲だった。

【紅茶】
3rdアルバム『ルーシー』(2001)より

この曲は以前から知っていて頻繁に聴くくらい好きな曲。

この曲は別れの歌なのだが、ここでいう"別れ"は、運命に引き裂かれる二人、みたいな外的要因による別れではなく、歌詞に"自分で選んだ"と書いてある通り能動的な別れである。…いや、もしかしたら複雑な事情とかあるかもだけど、言葉の上ではそう。

自分の道を歩む上で避けられない別れがあり、"地下鉄の入り口にある桜"や"寒い日に道ばたで飲んだ紅茶"などの「過去」の記憶をAメロで挟みながら、戻ることも立ち止まることもできない自身の歩みを、止まらない時間経過の象徴として「時計台の鐘の音」と重ねる構成。今こうやって書いててもソングライティングのお手本みたいな曲だ。

"自転車でどこまででもいけるような そんな気がしてた"という歌詞と、想い人といつまでも変わらず一緒にいられると思っていた気持ちとをリンクさせる表現も巧い。

この部分については、京都在住の頃、伏見から四条までチャリで通いまくっていたので「わかるわかる」と思いながら聴いていた(台無し)。

【blind summer fish】
ミニアルバム『イージーリスニング』(2001)より

直訳すると『盲目の夏の魚』。タイトルからしてもう既に切ない。
別れの予感を感じながら、それでも今"鼻の先すぐそばで"、"あなたの呼吸感じながら"という表現に坂本真綾の感性の唯一無二性が表れているように思う。

この曲もまた別れの歌だが、このアルバム全体のどこか幻想的な歌詞と音づくりが、別れの切なさとその先への祈りを抱えているように感じられて良い。(『bitter sweet』はちょっと毛色が違うかもだが…)

この曲の歌詞にある"預ける"というワードがアルバム最後の曲『bird』にも再度出てきている所に全体的なまとまりを感じるからかもしれない。

余談だが、"blind summer fish"という名前を見て、漫画『蟲師』の「眇の魚」という話を思い出したのは私だけではあるまいと踏んでいる。そんなことない?

【光あれ】
アルバム『少年アリス』(2003)より

このアルバムも名曲がたくさんある。
ライブでたびたび歌われる『スクラップ〜別れの詩』の、夢を追うことに対する苛烈なまでの覚悟と再起の詞だったり、『うちゅうひこうしのうた』のような、お互いの持ち物を分け合うささやかな幸せを歌った曲だったり、聴きごたえのある作品が多い。

そのなかで、坂本真綾の作家性のようなものが特に表れていると感じる曲がこの曲である。

幼稚だったり、身勝手だった過去の自分に、声が届いているかも分からないなか、それでも人を愛し続けたいと歌う歌詞には、坂本真綾本人が過去に関わり合い、すれ違ってきた人々に対しての、真っ直ぐ過ぎるほどの誠実さが窺える。

見落としてきた過去にも、不確定な未来にも向き合って"光"を求めて生きていくことを歌った歌詞は、なんてことのない些細な人間関係すらひとつひとつ大事に思う本人の実直さが垣間見え、まさしく眩しい。

"生まれ変わる勇気はもう 僕のなかに"

この歌詞にも、先述した『I.D.』にも似た「自分が自分らしく生きるための答えは、自分自身の中にしかない」という、あたかも自分自身に言い聞かせるかのような詞があり、その言葉の持つ気高さにはこちらも勇気を貰える。名曲です。

【キミドリ】
『シングルコレクション+ニコパチ』(2003)より

街での生活に慣れてきた主人公が、自分の中の大切なもの・原風景を思い出す。そんな曲。

ところで話が逸れるが、坂本真綾が過去に刊行したエッセイには以下のような一節がある。

 "たとえば地平線。丘の上の灯台。果てしなく続く1本の道。
 そういう風景は私の心の中になぜかずっと昔からあり、誰もいない、風の強いその場所にひとりきりで立っている自分という、実際には見たこともないはずの映像が、不思議とはっきり思い出せるような感じがしていた。
 それは私の中だけにある、自分の場所。何にも邪魔されない静かさと、土と草の湿った匂い。人もノイズも多い東京の街で生まれ育った私が抱いていた、ある種のコンプレックス。だったのだろうか。誰だって自分の育った場所は人一倍愛おしい反面、人一倍煙たく感じるものだ。
 歌詞を書くときにも、常にそんなイメージの中の「ふるさと」を思い描いていた。とてつもなく大きな何かに立ち向かうような、遠くの誰かに見守られているような、そこに帰れば何かが見つかるような…"

『アイディ。』(2011)より

この曲自体は、都会に染まって変わっていく自分を俯瞰しながら、自分の中の「帰るべき場所」を探し求める、という構図をとっている。

とは言っても、帰る場所っつったって文中にあるように坂本真綾は東京出身だろ、と思うかもしれないが、そもそもこの曲の歌詞も、特定の場所や具体的な故郷などは登場していない。"目に見えない矢印"をたどったり、空を映した水たまりに"秘密の入口"を見出したりしている。

私が一番印象に残った部分が以下の歌詞だ。

"ずっと昔聞いた不思議な物語は
時を越えて今も何かを照らしている
約束を果たすのは誰かのためじゃない
あの日の僕を信じているだけなんだ"

誰しも、その場所に来たことがないのにどこか懐かしい感覚がしたり、知らない誰かの言葉や、幼少期に体験した一連の出来事が、いつも心の奥に根ざしていて、ある時ひょっこり顔を出すという経験は多かれ少なかれあるように思う。

そういう、曖昧で不確かなものに寄り添い、自分を構成する一要素として人生の指針にする、という考え方は、私個人としてはいたく共感するところであった。
そんなささやかな体験をこそ大事にしたい。そんな次第です。

【ループ】
アルバム『夕凪LOOP』(2005)より

当たり前に好きな曲。
この曲の作詞は坂本真綾本人ではないのだが、確認したとき「そうなの?」となるくらいには坂本真綾っぽい作詞をしている。
歌詞全体の構成も好きだが、冒頭から引き込まれる表現が出てくる。

"ねぇ この街が夕闇に染まるときは
世界のどこかで 朝日がさす"

たとえば自分の身に、何かしら不幸だったり、悲しいと思えるような出来事が起こったとしても、それは世界の大きな流れのひとつに過ぎない、という、どことなく坂本真綾っぽい、物事にドライなような、それでいてさりげなく手を差し伸べるような、そんな歌詞。

自分のいる場所から見える景色とは別に、他の場所では常に違う景色が見え、それらは絶えず"ループ"し、繰り返されてゆく。

今起こっている不幸が、どん詰まりの袋小路で、修復不可能な、二度と幸福な場所に戻って来れないもののように思える時というのは、誰しも何らかの形で経験があるように思う。

そんな人にとって、幸も不幸も、自転し、公転する地球のように巡りめぐっていくものだというこの詞の考え方が、肩の荷を少しばかり降ろしてくれるような感覚にさせてくれる。

同アルバム収録の『若葉』(こっちは本人が作詞している)などにおいても、歌詞中の言葉が単に一義的な解釈にとどまらず、別の読み取り方もできる言葉選びをしているのが坂本真綾の作詞の面白い所だと思う。

『若葉』で具体的に述べると、この曲に出てくる"若葉薫る頃"や"日の暮れる前の一瞬の青さ"などのワードは、歌詞だけ読んでいると「過去の若かりし日々」だとか「昼から夜に切り替わる一瞬」と読み取れるが、実際に耳で聴いてみると、「あの日の延長上にありながら全く新しい季節の到来」であったり、「若さの表象としての"青さ"」だったりと、別の見方もできる。

『ループ』に出てくる「夕闇」などの、一見すると暗さを想起するワードも、世界を俯瞰して視点を変えれば、我々の生きる地球の大きな営みのひとつ、ととる事もできる。

以下お気に入りの歌詞。

"スピードを緩めずに
今はどんなに離れても
廻る奇跡の途中に
また向かい合うのだろう"

こういう、別れを歌った曲でありながらも、お互いの人生の延長線上で、また再び会えるだろうという予感を詞にのせて口にすること、曲にして歌うことそのものに、意志と、意義を感じられる。

余談だが、この曲を聴くとのぞみぞ、もとい映画リズでくみれいが『リズと青い鳥』第3楽章のソリ部分を2人で練習している場面の、あの伸び伸びとしたメロディを思い出す。夏紀が「『じゃあ、元気でな』ってかんじ」と言っていたが、まさしくそういった感じの、前向きで胸のすくような歌詞と曲調だ。オタクはすぐ推しカプでイメソン組む。

【僕たちが恋をする理由】
コンセプトアルバム『30minutes night flight』(2007年)より

このアルバムも全曲を通して聴くことで味わい深さが増す作品だと思う。全曲がちょうど30分なのも、ちょっとした掌編ぽくて良い。

どこか孤独を感じる静かな夜に、誰かを想う人を歌った作品群。それらを俯瞰する表題作。

選定した曲もまた、遠く離れた場所にいる人を歌った曲だ。

私はひねくれているので、人にはそれぞれその人にしか持ち得ない、関わる人それぞれに対する替えのきかない気持ちや想いがあって然るべきだと考えており、"恋"だとか"愛"だとか、やすやすとそれを1単語に同定すべきではないのではないか?とかいらん事を考えてしまうのだが、歌詞を見ると、

"オリオン星を見つけたら
胸が優しくなるわけは
どこかの街で見上げてる
きみの背中が浮かぶから"

"通りすがりの音楽に
風が冷たくなるわけは
私の中の特別な気持ち
きみは知らないでいるから"



それは恋だよ…………となった。

どういった意図があるかは不明だが、この曲にでてくる名詞の中には「君」は「きみ」に、「空」は「そら」に、というように、あえてひらがな表記で書かれている。

恋をするときの切なさというのは、視野が普段より狭まった、内向きな思いを想起しがちだが、歌詞のなかでこの表記をすること、なにより

"恋をした それだけで
そらは広く深くなっていく"

という歌詞も相まって、曲の中に「思いが届きそうで届かない」という切なさと、「その人を好きになった自分を好きになる」という開かれた気持ちとが同居する。

そういう「開かれた」気持ちの晴れやかさが、この曲の歌詞の表記に反映されているように思う。

漢字をひらがなで表記する事を「開く」とはよく言ったものである。

【Remedy】
アルバム『かぜよみ』(2009)より

坂本真綾を人に説明する際、どんな感じの歌手?と訊かれたら、「祈るように歌い、それが様になってる人」と形容することになると思う。

ライブBlu-rayを視聴しているときも思ったが、実際この曲も、心を込めて歌う部分は歌詞の中の言葉を繰り返して、大事そうに歌っている。

曲は、主人公が丘の上で忘れたかった過去を思い出す所から始まり、それについて以下のように歌っている。

"この先ずっと ずっと 抱えてく
消えない傷が心にある
ちゃんと触って 笑って
向き合えるときが
いつか来ますように"

歌詞にあるように、この曲に出てくる"私"にとって、過去は"懐かしくて泣きそうに"なる思い出で、"消えない傷"であり、"やりなおせないこと"である。

しかし曲中では、それをずっと抱えて、そしてそれがこれからも続いていく事が強調されている。

忘れたいような辛い思い出も、ありのまま抱えていく。

正直なところ、心の傷、とひとくちに言っても、各人各様の傷がある。それに向き合っていくのは、言葉にするよりも遥かに難しいことであるように思う。

それでも、"私"は、そういった思い出も、良い思い出にそうするのと同じくらい大事に、抱えていく。

すぐには向き合えなくても、いつか向き合えるようになって、"しあわせ"になれるように、と祈る。

だからでこそ、それまで"見守っていて"と告げるのである。

誰かのために歌うようにも、自分に言い聞かせるようにも聞こえるこの曲の歌詞は、言葉の持つ「想い」がより一層感じられ、それ故に、祈りの曲でありながらも、努めて前向きな気持ちにさせる。そんな曲になっている。





傘木希美〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜…………………………………………………………






今のは発作です。

【everywhere】
ベストアルバム『everywhere』(2010)より

この曲は、坂本真綾が初めて作詞・作曲を共に務めた曲であり、彼女を語るにあたって外せない曲であるように思う。

彼女は2009年29歳のとき、ヨーロッパ諸国を37日間ひとり旅をしており、その経験を一冊のエッセイにまとめている。

該当の曲は、その旅の途上、立ち寄ったローマ郊外の山の上に位置するB&Bで書き上げた作品である。

旅の目的は、彼女自身がずっと昔に、テレビで偶然目にして以来忘れられなかった、ポルトガル・リズボンの街並みを見にいくため。そして、旅という経験を通して、「ただ当たり前のことをし続ける時間」を取り戻すこと。

「ただ当たり前のこと」とは、必要なだけ寝る、必要なだけ食べる、必要なだけ歩き、必要なだけ考える。そういう人間が生活する中でもっとも基本的なもののことで、日々何かに追われる都会の生活では否応なく失われてしまうものである。この旅は、そういった普段の生活で失われてしまったものを取り戻す、そういう目的がある。

話を戻して、彼女がローマ郊外にて宿泊したB&Bは、イタリア人男性のトニーと、日本人女性のタケコさんとが切り盛りする家であり、ふたりの他に4匹のアイリッシュセッターと、1匹のパグが住んでいる。
リビングには1台のアップライトピアノがあり、ある日ホストのふたりがどうしても外出しなければならなくなったとき、パグの太郎と留守番をしているあいだ、「自由に弾いていい」と言われていたそのピアノを弾きながら生まれた曲。それが本作である。

太郎と時間を共にしながら、坂本真綾は「自分にとって”帰るべき場所”はどこにあるのか」、「自分が今生かされていることには、どんな意味があるのか」を考える。

傍にいる太郎は、タケコさんの20年来の相棒ということもあり、もうあまり活発に動くことはできない。しかし彼はピアノのそばで静かにじっとしていながらも、どこか達観したようで、坂本真綾から見て、その命は輝いて見えていた。
本文ではそんな彼を、”めいっぱい愛し、めいっぱい愛され、よく食べ、よく眠り、毎日をひたすらに誠実に生きてきて、ピカピカに磨かれたきれいな生命”と表現している。

おそらく彼女にとってその時の太郎の佇まいは、自分が取り戻そうとしていた、生命本来のあるべき姿と重なって映ったのだと思う。

話が長くなった。

本曲で主題となって歌われるのは、"自分の向かう場所"と"自分が帰る場所"について。タイトル通り、と言ってはなんだが、それらは同じ場所に回帰していく。

この歌詞については、詳しく話すとなんだか野暮な気がするので、あえて説明を省く。

代わりに、私が上記エッセイのあとがきで、特に坂本真綾本人が心を込めて書いたであろう部分を抜粋する。

”私たちは、愛されるために生まれてきた。誰よりも、自分自身に愛されるために。この命をもっと幸せにしてあげられるようにと、あの旅の間に心に刻んだ想いは今も色褪せずにここにあります。30歳を迎えた私、ただの坂本真綾の、これからの人生のテーマです。”

『from everywhere.』(2013)より

そういえば、こないだのビタミンM(2024/1/26放送回?)でも、恋に悩むリスナーに「自分を好きになることが人を好きになる第一歩」といった趣旨の話をしていた記憶がある。

ヨーロッパひとり旅の「当たり前のこと」をする、という目的も、ひいては「自分で自分をきちんと愛する」という事の延長上にあるように思う。

そういう意味では、彼女の中の「芯」にあたる部分は、エッセイ刊行当時から今現在に至るまで、変わらず彼女の中に在り続けていると言えよう。


【秘密】
アルバム『You can't catch me』(2011)より

あまり大っぴらに言うことでもないとも思うが、かなり好きな曲。

同アルバム収録の、坂本真綾自身の創作意欲の根源のようなものを熱く感じられる『eternal return』もだいぶ好きな曲だが、20周年ライブの思い出補正が割とあるな、と思いこちらをセレクトした。

坂本真綾の曲の中では比較的ギラついてる曲と言える。曲の最初の方から、

"転がってる目の前の自由
扱い方も知らず途方に暮れる
対向車線を行くライトが眩しい"

"大丈夫が口癖になっているこのごろは
たいていのことならもう我慢できる
こんなことを強さだというの
偽善者"

正直なところ、「僕に自由を」と軽やかに歌いあげた『eternal return』の直後の曲にこれ入れちゃうんだ、という変な笑いも込み上げるが、歌詞そのものはナイフのように鋭利で、それでいて切実さを抱えた独白が並ぶ。

"誰も知らない 誰にも触れさせはしない
私の中の柔らかい場所"

"誰も知らない 秘密をひとつ抱えて
痛みに耐えて どこまで行ける"

そんな自分の醜さを直視しつつ、その醜い感情そのものは誰一人として共有せず、墓場まで持っていくと言わんばかりに、それらを抱えたまま生きてゆく。

正直格好良いと思ったし、それを曲にして公開しているわけだから尚のこと覚悟が決まっている。

今後同人誌とか描くときは作業のお供にしたいな、と思う。

【誓い】
コンセプトアルバム『Driving in the silence』(2011)より

本作は「冬」をテーマにして作られた作品で、前作『You can't catch me』から10ヶ月待たずして発表されたアルバムである。

また、選出した曲は『everywhere』以来の、坂本真綾自身が作詞・作曲を手掛けた曲。

この曲の冒頭は、今この場にいない「君」を回顧するフレーズから始まる。

そうしてサビ前に挿入される歌詞が以下の部分。

"何を失っても 僕は生きていくだろう
どんな悲しみも 乗り越えるだろう
愛を誓うとき 告別も 約束した"

坂本真綾の歌詞に頻出する表現として、「『始まり』を経験したとき、同時に必ず来るであろう『終わり』を想う」といった傾向があると思う。

なんなら、ひとつ前に紹介した『秘密』にも"始まってないのに終わるのが怖くて"、 "失うものの数だけ数えている"といったフレーズが出てくる。

そういう、作詞家本人が持つ葛藤が生む言葉選びと、その末の覚悟が、この歌詞に表れている。

以下サビ。

"そして冬が終わる 憂いを振りほどいて
君が好きだった季節が
すべてをさらい 過ぎてゆく
僕はこのまま このまま"

注目すべきは、この曲中で「君」について言及するとき、時制は必ず過去形になっている、という点である。

アルバムコンセプトが「冬」である点と、発表年が2011年である事から、「君」がどういう人で、今何処にいるのかは、ある程度推測がつく。

しかしそれを踏まえた上でも、この曲は「君」と「僕」の誓いと、「僕」のこれからについての曲である。

"別々の命 それぞれの生き方で
ふたりはひとつの 道を選んだ
喜びを分かち 与えると 約束した"

「君」と離れ離れになった今も、約束は生き続けている。誓いを立てたその時から、それは変わっていない。
こういう言い方をするのはあまり良くないかもしれないが、この曲において「君」が今現在何処にいるのかは、さほど重要ではない。

曲は再びサビに入る。

"そして僕は向かう 誇りを胸に抱いて
君が好きだった世界で
君と見つめたその先へ
僕はこのまま このまま"

前半でのサビでは不確定だった、"このまま"の意味が、ここで分かる。

「停滞」を意味する"このまま"ではなく、約束と、誇りを抱えたまま突き進む、「前進」としての意味合いが、この言葉に集約されている。

この意味が分かるとき、同時に、"愛を誓うとき 告別も約束した"のフレーズが持つ、想い人を愛する事に対する途方もない遠大さも理解できる。この曲は、いつか必ず訪れる別れの哀しみをその詞に内包しながらも、約束を結んだ、ふたりのこれからの支えにもなっているように思う。

ちなみに、このアルバムの公開年である2011年の8月に、彼女は同業の鈴村健一との結婚を発表している。しれっととんでもないことする。


【おかえりなさい】
『シングルコレクション+ミツバチ』(2012)より

この楽曲はアニメ『たまゆら』シリーズの主題歌に使用された曲であるが、この曲の他に、カバー曲として、荒井(松任谷)由実の『やさしさに包まれたなら』『卒業写真』、大貫妙子による楽曲提供の『はじまりの海』、坂本真綾本人の作詞・作曲による『これから』など、彼女の曲が多く流れる作品となっている。

正直なところ、この作品に関してはアニメ1期を鑑賞したきりきちんと追えていなかったため、今猛烈に観たい。大貫妙子とか結構聴いてたので。

話を戻す。

本作は、瑞々しく鮮やかな、在りし日々を思い出す人を暖かく迎え、「おかえりなさい」と声をかける、そんな内容の一曲。

特に根拠があるわけではないが、ここで「おかえりなさい」と声をかけているのは、故郷の親や、友達・親類ではなく、「ふるさと」そのもののような気がしている。

誰しも心のなかに息づいている「ふるさと」の景色・思い出は異なり、ゆえにそれらの人々に各々寄り添ってくれるのは、各人の思い出の中の「ふるさと」であるように思う。

適当なことを言ってたらすまない。作品を全部観ていないので、明日には意見が変わってるかもしれないです。

以下好きな歌詞引用。

"おかえりなさい
思い出に
振り向くのも 変わることも
弱さじゃない"

なんてことのない素朴な歌詞だが、この一節から、過去を思い出し感傷に浸ることと、過去の自分を再確認して変わっていくこととは、別々に考えているように感じられる。

『光あれ』や『スクラップ〜別れの詩』、『Remedy』、『誓い』など、ここで紹介してきた楽曲だけでも、坂本真綾が"過去"というものに向き合って顧みる事を大切に思っていることは、もはや自明であるように思う。この曲は、懐かしさにふと泣きたくなるような、理屈で説明しづらい気持ちに優しく寄り添う、そんな曲になっている。

そのようでありながら、この歌の締めくくりは以下の歌詞によって結ばれている。

"おかえりなさい
気づいていて
生きることは 忘れること
今がいつも 一番輝いてる"

思い出を振り返ることを優しく肯定する歌詞を展開しておきながら、そんな思い出も生きていればいつか忘れる、という、ある意味割り切った表現をしている。

ぜんぜん関係ないが、前段で紹介した『everywhere』について綴ったエッセイには、宿泊させてくれたホストのふたりに対して坂本真綾が別れを惜しむくだりがある。

駅まで車で送ってくれたトニーに対し、何度も「寂しい」を連発する彼女に、彼は「午後になってフィレンツェに着いたら、きっとここでのことは忘れちゃうんだよ」と告げる。

そんな寂しいこと言うな!と私は心の中でツッコむわけだが、坂本真綾自身は、その言葉の意味をよくわかっている、と綴る。そして、だからこそ寂しいのだと。

『from everywhere.』のあとがきには以下のようにも綴られている。

"ときどき、ヨーロッパのあの乾いた風や、ベネチアの熱すぎる午後の日差しや、モルダウ川の水の色や、ロカ岬の強い風の音を思い出して、確かにあそこにいたんだと脳みそが確認しています。なんだか、どこか夢の中みたいな記憶なんです。やっぱり時とともにこうやってどんどん薄れていくんだ。そう思うと寂しいけれど、でも今ごろになってあの旅の本当の価値が実感できるようになった自分もいて、時間をかけなければ何事も本当の意味はわからないのだと思ったりもしています。"

それが良い思い出であれ、辛い思い出であれ、ある一つの経験をしたとき、その瞬間感じた気持ちは紛れもなく心に残っており、自らを形づくる一部となっている。そしてそれは、ふとした拍子にひょっこり現れて、経験した当時とは変わって案外スルッと腑に落ちたりする。そうして自分という存在は、昨日とは少しずつ違った存在になってゆく。

そういうことを思いながら、"生きることは 忘れること"の言葉の意味をいつまでも考え続けている。

明日にはまた意見が変わっているかもしれない。

【僕の半分】
アルバム『シンガーソングライター』(2013)より

タイトル通り、全曲を坂本真綾が作詞・作曲を手がけたアルバム。

このアルバムのリリースに合わせて、過去に作詞・作曲した『everywhere』や『誓い』もアルバム用にリメイクされている。

本当に名曲揃いで、『Ask.』や『カミナリ』、表題曲の『シンガーソングライター』など、言葉の端々から彼女のエッセンスが溢れている。

『なりたい』とかもかなり好きなんだけど、誕生日について歌った曲なので、あんまりライブでは披露されないのかな、と思ったりしている。

選曲した『僕の半分』も、例に漏れずとても坂本真綾らしい一作。

前提として、この曲は古代ギリシャの哲学がベースとしてあり、「僕の半分」とは、かの時代の哲学者プラトンの対話篇『饗宴』にある、"愛とは、完全なるものに対する欲望と追求である"という言葉に由来する(ちなみに、『SAVED』という曲にも古代ギリシャ哲学の「イデア」というワードが出てくる)。

ざっくり言うと、人間の魂とは、元々完全なひとつだったものがふたつに分かれたものであり、人が人を愛するのは、「かつて完全でひとつだった魂が、欠落したもう一つの片割れを探し求める」行為だとする思想だ。

まぁ、訳知り顔でざっくり、とか言うてますが私も大まかな部分しか知らない。

歌詞でいうと

"理由など知らない
どうして君とわかるのだろう
探してた半分 僕らは昔ひとつだった"

の部分がそれに該当する。
それを受けて、私が好きな部分が以下の歌詞。

"ながい坂の道を 静かな欠落を抱いて
僕らは歩いてく
未来はここから始まった"

この哲学の正当性がどうあれ、互いが互いの欠落を抱いて、補い合いながら共に歩いていく。坂本真綾にとっての愛、ひいては人と人との関わりの根幹に対する真摯な思いが歌われている。

マジで全然関係ないのだが、この「欠落」という言葉を受けて私が思い出すのが、NHKでかつて放送されていた『プロフェッショナル 仕事の流儀』の庵野秀明回だ。

庵野は幼少期あまり遠出をしたことがなく、それは過去に父親が事故で左足を失くしていたことが原因のひとつとしてあり、そんな父親がいつも世間を憎んでいたのを、彼は近くで見ていた。

しかしそれゆえに、何かが「欠落」した状態のアニメのヒーローに強く惹かれ、自身の作品にもそういったエッセンスを多分に取り入れている。

『エヴァ』シリーズに出てくるキャラクターも、心にどこかしら「欠落」を抱えており、それらを補おうと懸命に求めていく様が描かれる。

その姿勢について庵野は「親を肯定したかった」と語っていた。

愛とか哲学とか、小難しいことは分からないが、この姿勢は間違いなく愛であると思う。そして、坂本真綾がこれまで紡いできた歌詞から滲む、「親だから」「夫だから」といったラベルに囚われない、他者ひとりひとりに対する素朴で思慮深い姿勢もまた、愛と言えるのだと思う。

【さなぎ】
アルバム『FOLLOW ME UP』(2015)より

このアルバムも名曲しかないので選ぶのに本当に苦労した……
"絵"という媒体で自己表現をする人間として(大袈裟)、これを選曲した。
自分が自分に納得して人生を生きていくために、何に従って生きていくのかが、この作品では歌われている。

それは、アルバム1曲目の『FOLLOW ME』でいうなら

"恋より気持ちよくて 絹より美しい
この世にふたつとなくて 永遠には続かない"

それが何を指しているのかは明言されていないが、察するにこれは「人生の喜び」そのもののように思われる。これも個人の解釈だが。

2曲目の『Be mine!』では、自分のことを"本能の共犯者"と歌っている。自分と、自分の理性から切っても切り離せない"本能"とを並列して自らを「共犯者」なんて名乗っているのだから小気味いい曲だ。

選曲した『さなぎ』はアルバム内では3曲目だが、1,2曲目の上記に続いて、日々進化していく自分をさなぎに見立てて、自分が何に従って生きるかを迷いなく歌っている。

"はじめての空に少しの躊躇もなく
教わることじゃない 細胞が覚えてるの"

行ったことのないどこへ行っても、やったことのない何をやっても、結局はいちばん自然で、ありのままの自分でいるしかないというメッセージが読み取れる。

のちに続く

"別に賞賛はいらない
共感もいらない
私だけが 私だけに 従うことができる"

も、個人的にとても勇気をもらえる詞だ。

皆さんもユーフォで二次創作をするときは、この曲を聴きながら己の解釈に従って、のびのびと作品を書いてくれたらいいと思う(は?)。

ちなみに、そのあとの『That is To Say』なんかは、これらの曲に対するひとつのアンサーソングになっているように思える(ちなみにこれも『ループ』と同じ作詞家の方と坂本真綾の共作)。改めて名曲の多すぎるアルバムだ。

【今日だけの音楽】
アルバム『今日だけの音楽』(2019)より

何度も繰り返し聴いた曲でも、ふとした拍子に別の解釈が降りてくる経験はままあると思う。それは、詩の持つ言葉の広がりとして、聴いたその時々の自分のコンディションや、聴く場所・状況によって左右される。

本作は、「今日聴くのと、明日聴くのとでは意味が変わってしまう、今日だけの音楽」をテーマに、作詞・作曲・プロデューサーとして多方面に活躍する川谷絵音や、周年ライブで共演したthe band apartの荒井岳史、元キリンジの堀込泰行など、さまざまなアーティストとの共同制作によって作曲された楽曲群によって構成されている。

それは、当然普段の坂本真綾の楽曲とは毛色の違った作風になっており、さながらカバー曲メドレーを聴いているような気分に錯覚させる。
そして、そのような作詞・作曲面で何人ものアーティストがないまぜに関わっていることで、作品に対する解釈も幾層にも枝分かれする。それが、「今日だけの音楽」というコンセプトの実像をより立ち上らせる助けとなっている。

選曲したのは、アルバム最後に収録されている坂本真綾本人が作詞・作曲した楽曲。

本作リリース時のインタビューでは、「今ここにあるものに意識をもっと向けられたら、物事をシンプルに理解できるかもしれない」「結果的に私にとっての”今日だけの音楽”は、最初からポケットに入っていた素朴なものであった」と語っている。

自分も漫画のネタとか考えているとたびたび起こることであるが、その日その時々の自分のポケットに入っていた持ち物で、新たなアイデアやひらめきが明滅するように浮かんでは消えていく、という経験はよくある。

先述した"最初からポケットに入っていた素朴なもの"について、本作では以下のような歌詞で記述されている。

”生まれてはじめて歌った歌は何
覚えていないのにただ懐かしいの
時間を忘れた
誰かに聞かせるためじゃなくて
イルカが泳ぐように自由に歌ったんだ”

サビ部分では、坂本真綾にとっての『今日だけの音楽』は、
"私だけが知ってる"・"途切れても続いてる"・"抱きしめたら消えちゃう"・"さよならから始まる"メロディ、として表現されているが、歌を歌う時も、作品を作る時も、ライブで演奏する時も、なんならその辺の道端を歩いている時でさえ、自分のなかにある根っこの部分は意識せずとも滲み出てくる。

今回多くのアーティストと共同で楽曲制作を行ったことによって、いわゆるそれらの「外的刺激」が、坂本真綾の音楽の新たな側面を浮かび上がらせているように思う。

【クローバー】
25周年記念アルバム『シングルコレクション+アチコチ』(2020)より

クローバーの花言葉には色々あるが、たぶんこの曲に似つかわしいのは「約束」だと思われる。

この曲に登場する主人公は、日々を過酷に過ごし、そしてそんな疲れを癒してくれる"あなた"にも会えない。

そんななか歌われる歌詞が以下のとおり。

"悔しさってね 宝物だよ
そう言ってくれた人がいたな
無限の宇宙へとびだせクローバー
できないを超えていけ"


一目見て(エッ)となった。

というのも、坂本真綾は過去実際にそのセリフを他者から言われた事があるのだ。出典は前述したエッセイ『アイディ。』から。

それは2003年の夏、坂本真綾が舞台『レ・ミゼラブル』に登場するエポイーヌ役のオーディションに合格したことに端を発する。

『レ・ミゼ』は坂本真綾が子供の頃から好きだったミュージカルで、本人も大層思い入れがあった作品なのだが、度胸試しのつもりで受けたオーディションになんと受かってしまい、そこで彼女は初めての挫折を経験する。

稽古場ではいつものように上手く歌えず、緊張で足まで震え、しまいには稽古終わりの更衣室、周囲の目もあるなか、堪えきれず泣いてしまう。

いま読み返してても辛いエピソードだが、そこで同じメンバーのマルシアさんがかけてくれた言葉が、上記の歌詞の由来となっている。あえて原文のまま記す。

"悔しさは、タカラだよ。その気持ちがある人は、絶対強いから"

この言葉を受け、未熟な今の自分でも舞台を演じ切る決心を固め、手探りながらエッセイ刊行時の2005年まで、彼女はエポイーヌ役を演じ続けたと書かれている。

が、実際にはもっと長く、合計すると7年間、2009年まで継続して出演し続けている!

凄いことだ。普通そんなトラウマみたいな経験をしたらもう勘弁してくれ!と思うだろうし、実際エッセイでもそんな風に自身の気持ちを吐露しつつ、これで最後、これで最後、と思うわけだが、千秋楽までやり切ったあとは「もう少しやってみよう」と、気持ちを新たにしている。

私個人的に、このお話の山場は、オーディションを受けるか否かを決断するシーンだと思っている。

審査をトントン拍子に合格し最終の4次審査を前に、彼女は一度「ここで辞める」と弱音を吐く。
しかしそこで、オーディションを受けようと決めた当時の、純粋に作中の歌を自分自身で歌えることに対する憧れを思い出し、傷つくのを恐れて、子供の頃からの夢や願いに背中を向けることはしたくない、と考え、ついにオーディションを受ける事になる。

この決心ができただけでもう十分に偉いな、と思う。そしてそれを7年間も継続した事にも。

上記のエピソードを踏まえると、歌詞の中の"できないを超えていけ"の部分が、より一層深みを増して感ぜられる。

なにより、2020年にリリースされたシングル、及び25周年アルバムにあって、この頃のエピソードを踏まえた曲を改めて作曲することのできる坂本真綾の芯のブレなさに、私はただただ敬服するばかりである。

過去の自分と交わした「約束」が、今もこの歌に息づいているように思う。

【でも feat. 原昌和】
コンセプトアルバム『Duets』(2021)より

このアルバムのコンセプトは、収録曲をタイトル通り、色んなアーティストとのデュエットで歌われた楽曲群のみで構成する、というもので、様々な「Duet」をテーマに描かれた作詞に登場するのは、喧嘩ップルだったり、おしゃべりする仲のいい友達だったり、己とまだ見ぬ異星の誰かだったり、1人と1匹だったりする。

選曲した曲は、the band apartのベース原昌和氏との共作。

何と何のDuetなの?というと、自分と、消し去ったはずの無邪気で愚かな過去の自分。

心の蟠りを感じながら、過去の自分を思い返すなかで、自分の成すべきことを考える。そこで出てくる一節が以下の歌詞。

"一度かぎり 綱渡りの人生は
落ちたら終わりさ でも
走り出せばいい 靴を脱いで
たどり着けないとしても"

人生のリスクについて、打算的な思いを抱えながら、それでも自分が自分であるために、やり遂げられるか否かは置いて踏み出そうとする意志。そういうものに私は否応無く心が動かされてしまう。

原昌和氏自身が坂本真綾の熱烈なファンであることを公言していることもあり、なんとなく詞に坂本真綾イズムを感じる。

ライブでも一緒に演奏されていたが、音源で聴くとベースの妙技が遺憾なく発揮されているのを感じる。そういう意味でも、聴きごたえのある一曲となっていると思う。

【菫】
アルバム『記憶の図書館』(2023)より

11枚目のアルバム。
『記憶の図書館』というタイトルは、人々の記憶を管理する図書館から、廃棄された記憶を持ち出した少年が、ほんの出来心から、持ち出した各々の記憶を持ち主の窓辺へ返しに行く、というストーリーを基にしたアルバム。そこには、ある日ある時、誰かが感じた思いを音楽にすることで、聴いた人それぞれの共感を呼び起こす。

…みたいな事が、Apple musicの説明文に書いてあった。へぇ〜

今回このアルバムから『菫』を選んだ理由だが、ひとつは2022年に放映していたアニメ『であいもん』のOPに使われていて、作品との親和性が高いと感じたため。もうひとつは、楽曲提供がくるりの岸田繁氏で、個人的に音作りが好きなため。

ただ、最大の理由は他にもある。

選曲していて改めて強く感じた事なのだが、そもそもこのアルバムは坂本真綾が出産を経験してから初めてリリースされた作品である。

そういうことを踏まえて歌詞を読むと、このアルバムの曲の言葉がスッと頭に入ってくるような気がする。例えば、8曲目『言葉にできない』などは、旅立ちの歌ではあるが、

"私の名前に込められた願い
あなたがかけた魔法
つまづいたときは 
歩き出すまで待っててくれたね"

の部分だったり、

"巡り会えた人の数と
同じだけ別れもあるなら
さよならよりもっと
ふさわしい言葉があるはず"

このあたりから、過去に与えられた愛情と、これから育んでいくそれらの両方に目を向けて作詞しているのが窺える。

翻って『菫』の歌詞はというと、先述した『記憶の図書館』のコンセプトを総括するように、人々の営みに思いを馳せる構成となっており、アルバムのラストを飾るに相応しい曲となっている。

曲のサビは以下のように歌われる。

"僕たちは寂しい生き物だから
増えすぎてしまったのかな"

アニメ『であいもん』では、望まない別離、蟠りを残した関係性、誰にも言えない自分だけの秘密など、様々な孤独を抱えたキャラクターが出てくるが、彼らは日常生活のなかでそれらを抱えながら、少しずつお互いの距離を縮めていく。

それは作品に寄り添ったソングライティングという視点では、作品理解の深い完成度と言えるものになっているが、のちの歌詞には以下のような言葉も続く。

"出会わなければ
失う心配もしなくてよかった
出会わずにいたら 与えるだけの愛
そんな喜びがあること
知らずに生きて"

この歌詞を読むと、作品に対する優しい眼差しと同時に、坂本真綾自身の家族観、子供が産まれて否応なく目を向けざるを得なくなった不安と、新たに生まれた価値観が表出してくる。

元となる作品のあるなかでの楽曲提供において、作品の持つ世界観と、作詞家いち個人の極めてローカルで局所的な視点をリンクさせることによって、逆説的に作品への解像度がより深まっている。見事な言葉選びだと思う。

そして、後に続く2サビは、前半の歌詞に対して少し変化を加えたものとなる。

"僕たちは繋ぐ生き物だから
誰かの夢の続きを
あきらめきれず紡いでゆく
なんでもないような顔して"

この歌詞によって、1サビで提示された疑問に対する答えと、坂本真綾本人の今後の人生に対する表明、そしてアルバム全体で展開されてきた、様々な人々のパーソナルな悩みに対するひとつの解答が示されている。

前段の『誓い』でも記述したように、坂本真綾の作詞には「”始まり”を経験したとき、同時にいつか必ず来る”終わり”を想う」傾向がある。

『誓い』で提示された答えは、「”君”と交わした約束と、誇りを抱いて生き続けていく」というものであったが、本作ではそれをさらに拡張した、より広範な「人間存在」としての生き方、かくありたいという願いが垣間見える。

『誓い』発表から実に10年以上の時を経て、坂本真綾の形作る人生観の変化が、デビューから27年経ったなかでリリースされた楽曲にて、いまなお更新され続けている。そういう月日の流れを、しみじみと感慨深く感じる一作であった。

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以上が、アルバムごとに選曲した坂本真綾の楽曲に対する今の私の所感である。

書いてて「長いな〜」と思いつつ、全然語りきれなかったな、というのが正直なところ。だって全部で350曲くらいあるし…

先月の15日には新曲もリリースされた。

余談だが、彼女のブログには、公開された新曲『抱きしめて』のMVに出てきた早朝の東京について、"この朝日はどこかの国では夕焼けとして見えていて、真っ黒な夜でも、地球のどこかには、朝日が差していて…。私は、そんなことに思い巡らせながら見ました。"と書かれており、(『ループ』じゃん…)と思うなどした。
デビュー28年目を迎えながらも、彼女の根幹には、これまで積み重ねてきた作品と、それらに裏付けされた確たる価値観が宿っている。

思えば、10代でデビューし、多くの人と関わり、様々な肩書きを背負い、結婚し、子を産み親となった今でも、彼女は"表現者"として時代の先端を走り続けている。

曲もそうなのだが、坂本真綾の書く文章が好きというのもあるので、今後発売されるエッセイも楽しみにしている。遅まきながら、ファンクラブにも入った。いずれ、ライブにも行きたい。

そんな楽しみな"これから"を考えながらも、記事として彼女の作品群をまとめることによって、自分の中になんとなくあった『坂本真綾観』をちゃんと整理したり、言語化というアウトプットで自分の立ち位置を再確認できたのは、有意義な時間だったと思う。

改めて、こんな拙い文章でありながら長々読んでくださった方には感謝申し上げる。

これからも宜しくお願いします。

以上。

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