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苦悩との関わり方

ぷろおご ことプロ奢ラレヤー氏が、スペースでサラッと言っていたひとことが頭に残った。

これを実感した話。

展示やったよ

書の展示をした。
筆というものは不思議なもので、同じ言葉や文字を書いても、太さや細さ、勢い、強弱、墨のかすれ具合等で受け取る印象がガラリと変わる。
筆のはこびに自分の思いを込めて表現する、それが書の魅力だ。

今回は3回目の展示だったけれど、前の2回と違っていたのは、なかなか書く文字が浮かばなかったこと。
今までは直観的に浮かんでいた。今回も最終的には直観で書いたけれど、何か様子がちがった。

苦悩?

スラムという名の読書サークルにまともに関わりだしたのは去年の11月半ば。このnoteでもちょこちょこ書いていたとおり、スラムでは割といろんなことを吐き出していた。親のことや今まで出会ってきた人とのこと。仕事のこと。今までのこと。これからのこと。

端的に言えば書きすぎた。
自分の内なるマグマを放出しすぎてしまった。カラカラになるほどに。
1月あたりからうっすら気づいていたけれど、展示の準備も大詰めとなった2月後半からは特にそれを感じていた。

気づいていたのに、書くのはやめられなかった。たぶんなんかおかしかった。おそらく承認欲求とかまってちゃんと展示へのストレスが変な方向に出ていたのだと思う。わざわざ何かを見つけては書いていた。

醸造が必要

見つけては書いていたことも、苦悩のタネではあったのだろう。けれど、浅くて「それってあなたの感想ですよね?」に分類されるようなことが多かった。

苦悩には醸造が必要。時間をかけて、運命が目の前に繰り出してくる現実を感じ、ゆっくりと、苦悩のタネが芽吹き育っていく過程が必要なのだ。

前回および前々回の展示では、すでに私の中にあった苦悩がとぐろを巻いており、噴出するように出てきた。長年の発酵はたくさんのガスを発生させた。
今回は、それがなかった。

しかしながら、先月、その時間を待たずにたくさん書き散らかしていたのもまた理由があった。

「悩みたかった」

こたえは簡単で、私は悩みたいから悩んでいたのだ。なんなら積極的に悩もうとしていた。マンガやアニメの影響なのか何なのか出どころはわからないけど、悩んでるってなんかカッコいいじゃん。そんな認識があったのは否めない。

それだけじゃなくて、悩んでたらかまってもらえるかもとか、すごい奴って思われたいという思惑があったり、いつも楽天的に振る舞っていたら馬鹿にされたこととか、それらによる今までの思考のクセの延長線上に書き散らかしがあったのだと思う。

苦悩って、ナンダ?

私はたぶんおそらく、もともと幸せで、今も変わらず幸せな人間なのだろう。そりゃいろいろあったけど、衣食住には困らなかったし、行きたい学校も行かせてもらったし(奨学金は返済中)、何かと人に恵まれ、職にも恵まれた。ありがたい限りだ。

そんな中での私の苦悩の位置づけは、スパイシーなイベント。アミューズメント。アトラクション。そのひとつ。そんな感じ。
すごく良いイベントを経験させてもらってきた。

悩みは安易に垂れ流すもんじゃない

私の苦悩は私だけのもので、私だけが独占できて、私だけが感じることができる、唯一無二の成長アトラクション。それを軽々しく、まだ発酵しきっていない状態で出すのは、自分にとっても周りにとっても良いことはないんだな、ということがわかった。

苦悩はビールやワインと一緒で、発酵させてその上澄みを振る舞うことではじめて自らや周りに還元されていくのだ。

発酵しきるまで「待つ」という戦法を積極的にとっていきたい。そのために、人事を尽くしていく。

これから

ここまで「なんてこった!苦悩がなくなってしまった!」みたいな論調できたけれど、実は全く逆でとらえている。

「アーティストは苦悩がなくなったら終わり」それは本当にそう。体感してよくわかった。
苦悩のタネはいつもそこらへんに転がっていて、ふとした時に一気に芽吹いてくる。その苦悩のタネは、選ぶことができるというのが私の仮説。
つまり自分が進む方向や選んだものごとによって、苦悩は変わってくる。だから、苦悩がなくなったんなら作ればいい。それも、自分好みのやつを。

好きな苦悩が選べるって、素敵すぎない?

最後に

苦悩ってなんだかんだ苦しいから苦悩なんだよね。だから本音を言えばできるだけやりたくはない。

でも人生の中で、ずっと同じ毎日が続くのは私にとって辛いことなんだ。これはテレワークしていく中で思った。最初は本を読んだり何かを描いたり自炊したり散歩したり、自分ひとりの時間を満喫していた。しかしだんだん苦痛でイヤになってきた。楽しいと思っていたことが楽しくなくなっていった。圧倒的にヒマ。時間を持て余してしょうがない。私をこの世にとどめておくものがない。でも仕事はするからお金は貯まる。

つまんない。つまんない。そんな自分がつまんない。

そんな中で「世界は光だけでいいのに、影はいらない」とか「もう苦しいのはこりごり」みたいなツイートを目にして疑問に思った。
図と地の話でいえば、まず影という地(キャンバス)があってこそ光という図(絵)が存在し得るのだし、光が強くなればなるほど影は濃くなる。そしてその苦しみがあったからこそ自分を守る術を得ることもできたのだろうに。

そんなことを考えながら、私は思っていたより影の部分も大切にしているのだなぁということに気づいた。
苦悩は、影の部分だ。苦しい。のたうち回るし、きっついし、泣くけど、それは楽しいとかのいわゆる光の部分に同じ量だけ内包されているものであって、忌避するものではない。
少なくとも、今の私に苦悩は必要だ。

私は自分の呼ぶ方へ苦悩を醸しよろこびを表現していきたい。そして、頃合いの良いときに上澄みをふるまっていけたらいいな、と思っている。

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