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続 芥川

昔の話だ。


その男は、ある女に恋焦がれていた。たいそう高貴な女であった。身分違いの恋だった。叶うはずがない相手で、どう手を尽くしても、結ばれようのない恋だった。

女は、自分のことをただならぬほど真剣な眼差しで刺す男のことを知っていた。彼が自分のことを特別に想っているだろうことも承知していた。分からないと言えば後ろ指をさされるように明白だったから。
男は健やかで労働に馴れた体をしていて、それが女には物珍しかった。伸びやかで矯めることを知らぬ手足は、女の感性をくすぐった。命そのものの発散。自分と同じ生き物のはずなのに、女の知るどの男とも同じでなく、まるで高価なぜいたく品のようだと思った。粗末な食事で彼ができているとは想像もつかないと。

女にとって、この屋敷の、壁の先からうっすらと聞こえる喧騒は疎ましくおそろしいものだった。何もできない自分をあざ笑っているように聞こえることもあった。誰にも言えないけれど、女は何もできない自分を恥ずかしく、外を恐れてはいたけれど、外に出てみたいと思う気持ちも確かにあったのだった。おそれずに言うならば、外の人々が羨ましかった、自由に、野放図に、思うままのふるまいをする彼ら。

女はここで、父親の人生の駒となり、父親のはからいにより縁談に差し出されるのだった。何も不自由なことのない生活に不満はなかったが、それでも心のどこかで思ったりもした。もしも自分にも、この足で歩く自由があれば。恋をできたなら、あの真剣な男の手を取ることができたなら。ふとした時に、あの下男の、大したことのない、ぜいたくな男との逢瀬を夢見た。その間だけ女は、家柄とか筆跡とか、そういうものよりももっと確かなものを得て、自由で強くなれる気がした。

男は女の思う自由そのものに見えた。

闇夜に紛れて部屋に現れた男は、自分の行いに青ざめ、それでも決然としていた。その目のひたむきさに女は胸に穴が開いたように思った。うつくしいと思った。(恋に焦がされた若者は、今も昔も、むこうみず!)

男は、女が思っていたよりもずっと薄着だった。体からわずかに立ち上る水気さえも感じた。強靭な筋肉の躍動と、それを覆う、滑らかで強い皮膚。夢みたいだと女は思った。実感が湧かない。けれど確かに心は歓喜していた。そう、私はずっと窮屈だった。ずっと夢見ていた。この、予定調和の人生を誰かぶち壊して、連れ出してくれないかと。

いっそう暗い夜道の中、もう街の外れを歩いていた。

女には目にするものすべてが新しかった。すべての命が、自分の思いのままの姿をとっているのだと思った。短く息を吐いて体を揺する人の速度は振動は、牛車よりもずっと速くて熱いのだと知った。


男自身もそこがどこだと確かには言えないような場所で、女は美しいものを見たのだが、何だったのだろう。(女は実は夜目が効かないから、男の表情を憶えてはいないのだ)

目的地までは遠いようで、雷も酷く鳴っていたし、雨足も強く、たたきつけるようだった。男が安堵した理由が、その粗末な黒い塊のせいだと知った時、女はゾッと鳥肌が立った。なぜ手を離すのか。

嫌だとは言ったのだけど聞いてはもらえなかった。なんだかよくわからない暗い場所に、男は女を押し込めた。なだめる声ばかりはすがるようで、その顔に声に振る舞いににじむ苦渋を見れば、薄情だとは思わなかったが、けれど女を救ってはくれないし、絶望が薄まるわけではない。不条理だと思った。結局のところ男は女を手を離し、女にはそれが全てだった。女はうずくまった。震えが止まらない。寒い、怖い。

女は自分の無力を思い知った。今しがたまでの高揚はすっかり無くなっていた。むしろ、なんて大それたことをしてしまったのだろうと、寒気と震えは体の底からやってくるようだった。自分に自由を楽しめる余裕はなかったのに。ただ与えられた空間で、息をして眠って年をとって、子を産んでやがて死ぬ。そういう人生がお似合いの、ただちょっと小ぎれいに、大事にされているだけの女。ただ生まれた場所がちょっと御簾の内側だっただけの女。だというのに私はそのたったひとつの価値さえもだめにしてしまった。

悪夢というなら覚めてほしかったし、今この状況こそが悪夢だと女は思った。こんなところで死ぬのか私は。たった一人で、みじめったらしく雨と埃と汗と涙にまみれて。

いつの間にか女はかつて自分のいたあの小さな部屋を切望していた。清潔な床、すずやかな風、微かな喧噪、柔らかな香。決して怖いことのないあの退屈な懐かしい場所。
あの場所こそが自分の居場所だと女は強く思った。そして死ぬのはあの清潔な磨きあげられた床の上で、大勢の女房の悲嘆と祈祷の中で、丁寧に柔らかくした絹を重ねて、髪は丹念に梳かれて、あの香木の香りとともに、惜しまれ悔やまれながら逝くのだ。ありとあらゆる手を尽くしてもよくならないことを、ありとあらゆる人々が涙する中で。
そう、死ぬのは別に構わない、構わないけれども、私にふさわしい死に場所は決してこんな、正体不明の木のうろのような場所ではない。あってたまるか。
いつの間にか震えは止まっていた。

女は朝日の中で男を見た。泣きそうに顔を歪めた美しい男。しなやかな手足は砂埃でくすみ、衣服は本当に粗末だけれど、美しい。この美しい男が命を差し出したのだということを、忘れてはならないだろう、粗末にしてもいけない。相応の振る舞いが求められる。私は君臨する者。

結局男のことは、女に免じて不問となった。この騒動はほんの刹那に過ぎなかったけれど、女は中身がそっくり入れ替わったかのようだった。その変化を称賛する者もいれば、そうでない者もいた。もっとも、口が過ぎれば睨まれるので、またたくまに元のとおりに収まった。退屈な永遠。

男の行方に、女は今でも時折思いを馳せる。あれに渡した真珠、あれは今どこにあるのだろう。
初めて自分で手配したのだと、言っておけばよかったような気がほんの少しするのだ。
出産に比べれば、何ともならない胸のうずきだが。


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