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私たちは旅の途中

「ガラスの海を渡る舟」寺地はるな著

読後に一番はじめに思ったことは、道はずっと道だったし、羽衣子はずっと羽衣子だったな、ということだ。兄妹の人物が歪まなかった。兄妹はまるで本当にどこかに生きているみたいに、突然いい子になったり成長したりしなかった。そこがいいなと思った。

「平均」を与えられた妹は、平均ゆえに兄を疎み、羨み、必死であがき、大人になっていく。とりわけ彼女が兄の努力に敗北を認めたシーンはじんときた。

才能なんてふわふわしたもの
羽衣子にはガラスに向き合った、その時間がある

私自身の仕事も、たとえば誰かにかける一言とか、手帳に走り書きする振り返り等で成長を感じられたらすてきだなと思った。いつでも手に入らない夢を見て歯ぎしりするけれど、そうやって踏みしめて歩く日々が確かに前進しているとすれば、それは力になる気がする。

それにしても、こんなにも私たちを振り回す「才能」とか「センス」とは何なのだろう。

多くは語られないが、兄自身も周囲や自分自身に、どろどろしたような屈折したコンプレックスを抱いていたと私は思う。だから特別扱いしない祖父の言葉は何度も作中に現れたし、年月をまたいで話がすすむこの構成からすれば、それは兄の人格を支えるような重要な言葉となる。逃げられない現実から逃げ出す術を、彼はガラス以外にはもたなかったのかもしれない。道が逃げ込んだ先のガラスの海は、逃げ込むには、つよくて熱くて繊細で、脆くて弱い。美しい。予測できないという点で現実の縮図となるガラス。羽衣子は、予測のつかないガラスの出来ばえを天気や人の心に重ねる兄に目を見張るが、彼女を通して私たち読者も、いつのまにか絡みついてる誰かの思惑を絶ちきれると思う。

道であれ、羽衣子であれ。ちがうということは分かるが正解が分からない、ちがうということだけが分かる状態を経験する。正解を示すことのできない自分。ふがいなさやもどかしさを想像する。もしかしたらその苦しみが道を一層ガラスに駆り立てたのかもしれない。できない自分を突きつけられつづける時の気持ちは羽衣子が語っている。羽衣子の苦悩は明確に書かれていて、分かりやすい。だからといって、共感されにくい苦悩だって無かったことにならない。道の苦悩は水面下に深いから、見えにくい。

私たちは誰もがサバイバーで、いつだって生きるか死ぬかの道の、へりを、歩いているんじゃないだろうか。今までがそうだったように、これからも、死ぬまでずっと。

私たちの行く先を照らし励まし支えるのは、この兄妹のように悪態をつきながら支え合える誰かがいること、それは才能のかたちにとらわれない強力な助けとなるにちがいない。

ところで私は、できないことも全部いっしょくたで「才能がないから」と決めてかかりたくない。与えられたもので10割決まってるのが人生なのだとしたら、私自身の個性は、感情は、この日々が全部無意味になってしまう気がしてしまう。歴史に名前が残らなくても、世界で五番目にもならないかもしれないけど。そしてその試行錯誤の日々で、私の努力や苦労の末に達成したことが「才能があるから」この一言では少しむなしく思う。この論争はどこまで言っても答えは出ないけれど。もちろん私が空を飛べないようにできないと決まってることもあるけれど。

私は才能は、金塊というより能力なのではないかと思う。羽衣子は、ずば抜けた、熱烈な信望者を惹き付ける作品は作れないが、多くの人がいいなと思える、「ふつうの」範疇にある作品をつくることができた。誰かと違うこと、率直にいま自分のいる場所は、きっとその人の才能を発揮している場所。

才能はギフトだろうか。ギフトは本当に才能なんだろうか?実は私たちの手元のギフトは、才能ではなくて、オリジナルであることではないだろうか。だとしたら、私たちは誰もが、私たちらしくなることこそが、ギフトなのではないか。

平凡な私でも前向きに生きていきたい。きっとその先に見える何かがあると思う。


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