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個性を地獄から

朝井リョウさんは時折読む作家で、一番記憶に新しいのは「正欲」です。「死にがいを求めて生きているの」は少し前に読みました。(螺旋プロジェクトで手にとった。)

この作品のポイントは、螺旋プロジェクトという異色の企画もさることながら、「生きがい」ではなく「死にがい」という強烈にざらつく、しかしどこか納得がいくタイトルだと思います。

それは生きることはすなわち死にゆくことでもあるからです。そして、生きがいが日々を切り抜けていく手段である印象が強い反面、死にがいとなると「命をかける価値」をつきつけてくるなと思います。所謂「心臓を捧げよ」ということ。決してブレない支柱を持つこと。そしてその活動の先に自分の死を据えること。私は読書や園芸(や仕事や人間関係)などが好きで、「このためにここまでやってきた」とふと充足に浸る時がありますが、そのときには「生きがい」だとは思うけれど「このために死ねる」とはとても思えない。

生きがいはまるで雨の後の虹のように私を照らしてくれるけれど、途方もない雨から守ってはくれない。だから時々くじけてしまいそうになる、ああこんな雨にあたってまで見たい虹はあるのか?と。それで言うなら死にがいは、その人生すべてをくまなく貫く白い光で、それさえあればどれほど心安い道だろう、と想像する。

けれど本当は、それは簡単に見えることなどない得難いもので、振り返った自分の足跡を見ておぼろげながら悟るたぐいのものではないかと思う。老年期に縁側で、日だまりの中でわかるような。さらに言えばきっとその足跡は悩み惑い失敗したものの積み重ねに違いない。少なくとも私の今までの日々(そしてこれからもきっと)は、後悔と無念が不揃いなミルフィーユのようになっている。けれどその積み重ねが個性になると思う。

だから安易に死にがいを求めてさまようのは、こわいことであるとも思う。単純化されたシンプルで合理的な構図には堅牢な魅力があり、それにのみ込まれた雄介は死にがいの亡者となってしまった。えてして大抵、自分自身のことは正確にはわからない。正当化は思考停止に等しい。思考停止は省エネだが、大事なことを見落としやすい。

朝井リョウさんの作品は、自己認識を他者に預ける部分が非常に大きいと思います。また、私は朝井リョウさんのものは著者と著作はある程度絡まっていると思っているので(インタビューやエッセイ「時をかけるゆとり」などから)、いわゆるゆとり世代を写しているとも思います。自分自身を見ることができない、見るには鏡を見るしかない、他者の目に映る自分の像を手繰り寄せて自分自身を知る、その自分自身は誰もに愛され、認められなくてはならないという切実さ。きっとゆとり世代の、横並びなのにもかかわらず唯一を求められる息苦しさを感じます。

共感しつつも私はふと思うのですが、「愛されなくちゃ」とか「信頼されなくちゃ」という気持ちになっている時点ですでにそれは押しつけであり、その上に成り立つ関係にはある程度配慮が入るため、純粋に「愛されている」わけでも「信頼されている」わけでもないのでは?と。自分自身の核心までもが他者のひとみに写っているかはわからないし、譲ってはならないような気が。誰もが理想の自分と現実の自分には落差があり、その深淵に苦しむ日々なくしては、自分自身を知ることはできないと思います。それはどれだけ「映える」生活をしていても関係ないこと。

私は私であなたはあなた。それは少し冷たくて、時々凍えそうになるけれど、だから話ができると思います。

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