舞台ノートルダムの鐘&ノートルダム・ド・パリ考察もどきの感想

ノートルダムの鐘(ディズニー映画)→ノートル=ダム・ド・パリ (角川文庫)ノートルダム・ド・パリ(岩波文庫)ノートルダム・ド・パリ(トキメキ夢文庫)→舞台ノートルダムの鐘(2/24京都劇団四季)
の順番で見た人間の感想ですので原作寄りの感想になってます。といってもそれぞれ1回しか読んでおらず、理解も浅いです。

これから本を読むよという方にはトキメキ夢文庫からの岩波文庫をオススメします。トキメキ夢文庫はストーリーがわかりやすく、原作沿いで大事なところを抑えているので...…。

舞台と原作におけるΑΝΑΓΚΗ(アナンケ)と愛

舞台ノートルダムの鐘のキャッチコピーは”愛は「宿命」を変えられるか”である。
正直、私はこのキャッチコピーを見て、原作はそんな話だっただろうかと疑問に思った。
「宿命」はノートルダム・ド・パリ(以下原作)の著者の序文で出てくるΑΝΑΓΚΗ(アナンケ)の訳であり、原作の物語はこの不思議な言葉から想起して生まれた。
また、この文字は原作の物語中でエスメラルダへの情欲を募らせたフロローが壁に刻む文字でもある。
アナンケのフランス語での意味は以下の通り。

1.     Nécessité,contrainte.(必要、制約)
2.     (Enparticulier)Nécessité,destinéeinévitable.(必要、避けられない運命)
3.     Besoinphysique,loidelanature.(肉体の欲求)
4.     Vienécessiteuse,misère.(貧困生活、悲惨)
5.     Moyendecontrainte.(強制の手段)
6.     Liendusang.(血縁関係)

(wiktionnaire調べ)

原作でフロローはエスメラルダとのめぐりあわせ、彼女に対する抑えることや逃れることの出来ない情欲、それに対する自らの行いに対して、度々「宿命」という言葉を使う。上でいう2と3の意味に近い使い方だ。フロローの宿命に対する姿勢は、黒い服をまとったふたりの男の章で語られるハエとクモの関係性が象徴的だろう。

「これが万物の象徴だ。飛びまわっていて、楽しげだ。生まれてきたばかりなのだ。春の日ざしを求め、自由を求めるのだ。おお!そうなのだ。だが、致命的な円花窓にぶつかる、クモが飛びだしてくる。恐ろしいクモがな!哀れな踊り子よ!宿命に定められた哀れなハエだ!ジャック君、そのままにしておきたまえ!それは運命なのだ!……ああ!クロードよ、おまえはクモなのだ。クロードよ、おまえはまたハエのようなものでもある!……おまえは、学問を求め、光明を求め、太陽を求めて飛んでいった。おまえは、大気や永遠の真理の日ざかりに到達することのみを念頭においていた。だが、それとは違った別な世の中、光明の世界、知識と学問との世界に向かって開かれている天窓のほうに飛び込んでしまったのだ。ああ、盲目なハエよ、愚かな学者よ、おまえは、光明とおまえとのあいだに張りめぐらされた、この微妙な網を見なかったのだ。そしておまえは、気が狂った哀れなものよ、おまえは、そこに飛び込んで身を滅ぼしてしまったのだ。いまや、頭を割られ、翼をむしられて、宿命という鉄の触角のあいだで、もがいているのだ!……ジャック君!ジャック君!クモのするがままにしておきたまえ」

ヴィクトル・ユゴー.ノートルダム・ド・パリ(上)(p.458).グーテンベルク21.Kindle版. 

フロローは自らの情欲を宿命として受け止め、苦悩しながらもそれに抗わずに宿命のなすがままとなることを選んだ。その結果、宿命はフロローを悪魔へと変貌させることになる。もちろん、悪魔といっても極めて人間的な悪魔だ。原作のフロローがエスメラルダを絞首刑にし、その場から逃げ出して遠く(といっても近かった)に行くシーンがお気に入りなのだが、この描写にフロローという人間が詰まっていると思う。

永遠の誓いなどというものの愚かしさ、純潔や、学問や、宗教や、徳などというもののむなしさ、神の無意味なことについて、いろいろあれやこれや思いをめぐらした。心ゆくまで、さまざまな思いの中にはいりこんでいくのだったが、その思いの中に深くはいればはいるほど、心の中に悪魔が笑いだすのを感じた。このように自分の魂をほりさげて、自然というものが、自分の魂の中に、どんなに大きな場所を情欲のために用意してあったかに気がつくと、彼は、なおいっそう、にがにがしげに冷笑せずにはいられなかった。心の奥底で、すべての憎しみや、すべての悪意を持ちだして考えてみた。そして、医者が病人を診察するときのように冷やかにじろりと見て、この憎しみやこの悪意というものが、くさった愛の気持からだけ生まれたものであることを知った。また恋とは、人間にあってはすべての徳の源泉であるものだが、司祭の心の中では、恐ろしいものになってしまうものだ、そして、自分のような素質の人間は、司祭になりながら悪魔にもなってしまうものだということを知ったのである。そう考えてきて、彼はものすごい形相で、にたりとにたりと笑った。と、とつぜん、自分の宿命的な情欲、このくさりきった、有毒の、憎悪の念のこもった、また執念深い、ひとりを絞首台に上げ、他のひとりを地獄へ落とさねばやまぬこの恋を考えて、また顔色がまっ青になった。そのために女は刑場に引かれ、男は地獄に落ちてしまったのだ。(中略)
ああ!これだ!このことなのだ!たえずふりかかって来て彼を苦しめ、その脳漿を噛み、はらわたをずたずたにしたのは、この執念なのだ。彼には、後悔もなく悔悟もなかった。いままでにしたことを全部、もう一度やってみようとさえ思った。あの娘が隊長の手にあるのを見るよりも、むしろ、死刑執行人の手にあるのを見たいと思ったのだ。だが、彼は苦しかった。彼は悩んだ。ときどき髪の毛をかきむしっては、それが白くなってはいないだろうかと見たほどであった。

ヴィクトル・ユゴー.ノートルダム・ド・パリ(下)(Kindleの位置No.1281-1284)(Kindleの位置No.1307-1313).グーテンベルク21.Kindle版.//

さて、めちゃくちゃ長々と引用したけれど、何を伝えたかったかというと原作では「宿命」とは逃れられない巡り合わせやそれによる欲求を指しているように感じる。つまり、愛は「宿命」を変えられるか、とあるが原作では愛(肉体に宿る情欲)こそが宿命なのではないかと思ったのだ。

しかし、舞台を見るとこの“愛は「宿命」を変えられるか”というキャッチコピーが相応しいと感じた。舞台における「宿命」とは生まれ持った身体や地位のことを指していると思ったからだ。これは舞台と原作の登場人物の背景の違いによるところが大きいだろう。

登場人物の違い

・フロロー

原作ではフロローは子供の頃から聖職につくように仕込まれ、大学のトルシ校に閉じ込められて、ミサ典書とギリシア語の辞書を糧に成長した。知識欲の赴くままに学問の世界に生きた人間であったが、両親の死を契機に現実に呼び戻され、幼い弟への激しい愛情を抱くことになる。カジモドを育て始めるのも弟を発見した時と重なったことや真面目に勉強せず悪さばかりする弟の贖罪になるかもしれないと思ったからだ。しかし、愛情をこめて育てた弟が堕落したことにひどく胸を痛め、人間を愛すことに失望し、まえにもました熱烈さで、学問の腕の中に身を投げることになる。
そんな中、目にしたエスメラルダに一目ぼれをし、執着するようになる。エスメラルダとのまともな会話は彼女を陥れて牢屋に入れるまでほとんどない。内面には惹かれてないのだ。

舞台版ではみなしごとして、弟と共に大聖堂に引き取られ、教えを学び、敬虔な大助祭となった。
カジモドは弟がジプシーと結ばれて出来た子供で、怪物のような見た目をしており、教えに背いた罪の象徴として出来損ないの意味で「カジモド」とつける。育てはじめる理由も弟に託されて殺そうとしたが、神が見ていると感じて、正しく生きられるように導いてやるために育て始める。神の教えを説き、それを守ることが愛だと思っている。
エスメラルダに一目ぼれをし、大聖堂の中で話した内容でジプシーである彼女の知性や学ぶ姿勢を知ってより惹かれる。が、彼女にその目は色欲に染まっていると言われて激怒し、ジプシーであるエスメラルダを魔女呼ばわりして陥れる。

・カジモド

原作でのカジモドはらんちき騒ぎで

彼は生まれてはじめて、自尊心の満足という喜びを味わうことができたのだ。それまでは自分の身の上に対する屈辱と軽蔑、われとわが身に対する不快感だけしか味わったことがなかったのだ。だからカジモドは、耳はきこえなかったが、すっかり法王気分になって、嫌われていると思うため自分のほうでも嫌っていた世間の人びとの拍手喝采を、心ゆくまで楽しんでいた。

ヴィクトル・ユゴー.ノートルダム・ド・パリ(上)(pp.105-106).グーテンベルク21.Kindle版.

と、あるように世間の人々を嫌っていた。それも実際の経験からくるもので社会に顔を出すと侮辱され、嫌われてきたからだ。そのため、人の世の憎しみをわがものとして、自分自身も人を傷つける性格に、意地悪な性格になってしまった。また、鐘の音を愛していたが、耳が聞こえなくなったことにより心を閉ざし、喋ることも少なくなっている。
拾って育ててくれたフロローに対しての忠誠心が厚く、命令に従ってエスメラルダの誘拐なども行った。そのことに対する罰としてさらし者にされていたところを恨まれるべきであるはずのエスメラルダに優しくしてもらい、恩義を抱く。助け出したエスメラルダからは見た目を怖がられる。そのため、彼女の眠っているときに彼女に食料を置いていくなど目に触れないように気を遣っていた。

舞台版はどちらかといえば無垢で、自分のことを醜い、世間は冷たいと思っているがフロローがそう言っているからという感じで外界との繋がり自体が元々ないように見える。外の世界に憧れと恐れを持っているが、怪物ゆえにフロローから禁じられている。
エスメラルダにらんちき騒ぎで民衆から虐げられているところを助けられ、自分を心配して追いかけてくれた上、見た目で怖がらずに普通に接してくれたことで恩義と愛情を感じる。

舞台における愛と『宿命』

舞台版ではカジモドは見た目の醜悪さと知的な遅れによる『怪物』ゆえに人から酷い扱いを受けている。フロローは神の教えに縛られている『大助祭』ゆえに、女性への肉欲を認めることが出来ず、その原因であるエスメラルダを自らの支配下におき、導こうとする(それがフロローにとって愛することであるため)。エスメラルダは『ジプシー』ゆえに一人の人間として扱われてこなかった。
『怪物』、『大助祭』、『ジプシー』という宿命からの脱却こそが舞台版のテーマである。
そして、宿命を変えることも狂わすことも出来るのが愛であるとしているのだ。

  • 『怪物』カジモドはエスメラルダから一人の人間として普通に接され、今まで知ることのなかった愛を知り、フィーバスとエスメラルダの関係を見て、孤独や絶望を知り、それでも愛する人のために立ち上がった。ラストの演出で『怪物』ではなく、人間であったことを示すのだ。宿命から脱却したのがカジモドである。

  • 『ジプシー』エスメラルダはフィーバスのために自分の身をフロローに捧げるという選択肢を取ろうと迷っていたが、フィーバスにエスメラルダ自身の意思を尊重され(愛され)、自分自身の望む終焉を選ぶ。けれど、ジプシーという宿命からの脱却は叶わなかった。そのため、サムデイの歌詞で、いつの日か正義の夜明けが来ると、人が皆賢くなって争いの炎が消え、人が平等に生きていける日が必ず来ると祈る。この曲では愛こそがジプシーという宿命を脱却させるものであったとし、今はまだ人々が自分と違う他人を受け入れ愛することが出来ていない現状を嘆きつつも、いつかはそんな日が来ると我々に訴えかけてくる。
    人は誰もが神の子として、分け隔てなく相手に接することが出来る。宿命に抗う生き方をしている人間と言える。

  • 『大助祭』フロローは神の教えに囚われ、自らの欲を認めることが出来ず、無実の罪をエスメラルダに被せることで始末するか、自分のものにするかを考える。宿命が愛を狂わせ、歪んだ愛は宿命のありかたを変えてしまった。宿命に囚われる者である。

舞台ではディズニーと違い、原作通りの悲劇的な結末を迎える。一つ救いがあるとすれば、エスメラルダが光の差す方へと行った(天国に迎えられた)ことである。けれど、これは神が救うのは死後のみであり、現世で人を救うのは神ではなく人であるということを示しているようにも感じる。サムデイにあるように、人々が平等に生きていける世の中には自分と違う人に対する愛が必要なのだ。

人間と怪物の違いはなにか

舞台の始まりで「教えて欲しい、人間と怪物の違いは何か」という問い掛けが行われる。そして、人間であったカジモドは舞台上でこぶを背負い、顔にペイントをして怪物へと姿を変える。そうやって物語は始まるのだ。
そして、迎えるラストでカジモドは顔のペイントとこぶを取って人間となり、他の人間は顔にペイントを施して怪物へと生まれ変わる。
この演出はいくつかの見方が出来る。

  • 人間は誰でも怪物になるし、怪物と思われていたものも人間になる。

  • 人間は怪物であるし、怪物も人間である。どちらにも違いはない。

  • ペイントを施した(見た目の醜悪さ)だけで心まで怪物になったとは思わないでしょう?見た目では判断できないでしょう?

  • 全ての人間は未だ怪物である。未だに争いや不平等が存在する世界であることを忘れてはいけない。

ただ、このうちのどれかが間違いだとも正解だとも思わない。

舞台におけるノートルダム寺院

原作ではノートルダムはフロローとカジモドに違う理由で愛されている。

本能的で野性的な、半分人間みたいなカジモドからは、この聖堂はその美しさや、高さや、堂々とした全体の構えからかもし出される調和を愛されていた。
博学で情熱的な想像力に恵まれたクロードからは、建物がもっている意義や、神話や、秘めている意味を愛されていたのだ。羊皮紙の文章のところどころに最初に書いて削りとられた文章がちちちら残っているように、正面のさまざまな彫刻の下にちらほらと見られる象徴を、クロードは愛したのだ。つまり大聖堂が永遠に知性に向かって差し出しているなぞを愛したのである。

ヴィクトル・ユゴー.ノートルダム・ド・パリ(上)(pp.256-257).グーテンベルク21.Kindle版.

舞台におけるノートルダム寺院も同様に二人から愛されているように感じた。そして、その愛はフロローやカジモドを見つめる眼差しとして返ってきていたように思う。
フロローはその眼差しによって神の意志とされるものが土壌に根付き、幼いカジモドを殺そうとしたときに、神の見つめる眼差しとして現れた。神の教えを書物だけでなく、ノートルダム寺院の在り方からも学んだため、神の意志に背くことを恐れ、恥じ入り、認めないようになってしまったのではないだろうか。
カジモドはその眼差しによって見守られ、時に話すガーゴイルとしてカジモドを励ましてきた。「石になろう」で心を閉ざしたカジモドが次のシーンでは勇気を出してエスメラルダを救いにいったのは、ノートルダムの鐘が、石像が、その建造物の全ての構成物がカジモドを包み、変わらず見守っていたからこそ勇気を出すことが出来たのだと思う。

そのほかの感想

  • エスメラルダに対してフロローもカジモドもどちらもノートルダムで暮らせばよいと言っているのが、親子(義理ではあるが)だなぁと思った。同じ内容を言っているけれど、気持ちが違うのをエスメラルダは察することが出来るから対応が違ったんだろうな。

  • カジモドってどこまで知っていて、フロローを落とすまでに至ったんだろうか。原作だとフロローが誘拐したと鍵の持ち主からほぼ断定出来ていて、かつ目の前でエスメラルダが絞首刑になってフロローが悪魔のように笑っていたから怒り狂って突き落としたと分かるのだけれど、舞台版は笑ったりせず、真摯に質問に答えているから(返答はクソだが)世界が狭くて教えに忠実なカジモドだったら殺すまではいかなさそうな気がする。

  • フロローを突き落とすシーンでカジモドが笑っているように見えて怖かった。笑っていたよね...…?


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