「eto minoruさんへの応答 見逃されがちな両輪、「差別法理」と「人格権法理」について」について


「eto minoruさんへの応答 見逃されがちな両輪、「差別法理」と「人格権法理」について」という文章について

残念ながら、「CRAC反差別カウンターの『当事者の意見を聞かない』という原則」の意味を理解出来ていないのではないか、と思わざるを得なかった。

「嫌がらせのために『論理的歴史的に差別性の薄い』用語をマイノリティ当事者に向ける行為は、この原則に従った場合には批判することができません。」というのは何について言っているのでしょうか?また、欧文の「在日」はその書かれた動機に「嫌がらせ」があったというのはいくら何でも独善的に過ぎるのではないでしょうか。というより「嫌がらせ」の動機など皆無ではないでしょうか。
 そして、むしろCRACは、その原則を保持したまま、反差別の現場ではその言葉の歴史性などを無視してその発せられた人の差別意図を問題にして来た。逆に今回の場合はそこに差別意図が無かったために、CRACは今回の欧文の「在日」を批判しなかった。そこに差別意図がなかったから当然、カウンターの対象外だった。

「ハラスメントの考え方には『差別法理』と『人格権法理』のふたつがあります」についても異論があるが、それは上滝弁護士の論を待つとして、

「CRACの『当事者の意見を聞かない』という原則は、差別法理に基づいた考え方です。」と言うが、この「意見を聞かない」ことが原則などということはCRAC側から聞いたことが無いように思う。CRACが言っている原則は在日コリアンまたはマイノリティに責任を負わせないということだ。事実、野間氏もブログ記事『さようなら、カウンター』では「参考にする」と言っている。一方で、欧文の「在日」表記を糾弾した人々は、在日コリアンの訴えがあるからと、その言葉を掲げた人々を糾弾した。このことによって欧文の「在日」表記は在日コリアンの責任でNGワードとなったということだが、それで良かったのか?欧文の「在日」を掲げた側にも在日コリアンがいて、その糾弾によってアカウントを閉じたと言われている。その口を閉ざしたの責任も在日コリアンの「違和感」であり、その「在日コリアンのために」糾弾したのだから、その糾弾を煽った日本人は無答責無責任でいられるということなのか?

 また、同文の末尾に謂わば提言とでも言うべき文がある。それは、「CRACの『原則』の不十分さを指摘します。そして、『人格権法理に基づく、マイノリティ個人の感情に依拠した考え』を併用することの必要性をお伝えしたいと思います」というものなのだが、「マイノリティ個人の感情に依拠」することなど不可能で不誠実と言わねばならないだろう。なぜならマイノリティの考えも当然のこと、多様であることを前提にしなければならないだろうし、今回の欧文表記の「在日」を掲げた側にも在日コリアンがいたことが、正にその提言の不可能性、恣意性を明らかにしている。野間氏が言葉の問題で歴史的な成り立ちやコンセンサスを問題にするのは、そのような特定の個人によって決められるべきではないとするからだろうし、ましてマイノリティの誰か個人のために当事者全体をその個人と同じメンタリティを持つものとして利用することなど認められる訳もなかった。
 さらに、今回の件では掲げた人間に差別心はなく、表明されたのは「違和感」ではなかったのか。誰かの「違和感」で他者の反差別の意図で掲げられた言葉を断罪し引っ込めさせることが出来るほど、その掲げた人々の表現の自由は軽いのだろうか?

 末尾には以上のことを引いて、「『明らかに差別的ではないが、権利侵害を受けたと感じるマイノリティ当事者がいる事例」とあるが、この場合が「『明らかに差別的ではないが、権利侵害を受けたと感じるマイノリティ当事者がいる事例」なのだろうか。「権利侵害」という言葉はそんなに簡単に使って良い剣ではないだろう。今回の場合は特にその刃の向かう先には別のマイノリティもいたのだし。

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