猫にも犬にもなりたい

わんわんわん。マゾはなにかとワンと鳴いてますね。でも大好きな人の手の上では「にゃあ」と泣かされる。

嘘に塗れている僕という病気のマゾ

僕は僕を好きな人、僕が好きな人以外には愛想を良くすることが難しいです。必要最低限の定型文で会話しているような。「はい」「わかりました」「ありがとうございます」「申し訳ございません」
日常僕が使うこれらの言葉たちは、にこやかに発することはできるものの、気持ちがこもっていません。気持ちを込めるということは、自分を消費する事だと感じるからです。自分というリソースは人よりかなり少ないと思います。社会にすぐ息切れしてしまう。
僕の世界は、僕をかわいがってくれる人だけでいいのです。好きな人に対して心からいう「ありがとうございます」「ごめんなさい」「許してください」は本当に気持ちがいいです。

一緒に部屋にいる時は、ずっと首輪をしていたいです。相手様の気が向いたときにリードをぐんと引っ張る。上記のようでなくても、「今からお前をぐちゃぐちゃにするから用意して」の非言語化というのでしょうか。ともかくそういったものがとても大好きです。もちろん直接そう言ってくれてもいいんですが、態度や行動で示されると、ぞくぞくしてしまうのはどうしてなのでしょうか。普段の生活で無表情の自分が、首輪に伝わる引力を感じただけで蕩けた顔になってると自覚できてしまう。とても恥ずかしい。でもとても嬉しい。お腹の奥が熱くなって、オスの身体にはないはずの子宮が疼く。跪く。足下にすがりついて、お願いしますと媚びる。それが幸せ。無意識に上がる口角。これからとても辛いことをされるのに、それが楽しみで楽しみでしょうがない。自分は病気なんだ。ぐちゃぐちゃに虐められないと生きてていいって思えない不治の病。いつからこうなってしまったのかは、とうの昔に覚えておくことをやめた。治さなくてもいいと思っているから。ごめんなさい。こんな生き物でごめんなさい。虐められてる時、犬のように従順で、猫のように甘ったるい嬌声を出させられてる時、その人は僕だけを見てくれると感じられるから、幸せなんです。

幸せになりたいな。なれるかな。

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