オンライン写真展『紅灯アーカイブス〜色街の残照〜』(東京都墨田区・鳩の街)[18枚、昭和63(1988)&平成2(1990)年撮影]
オンライン・フィルム写真展『紅灯アーカイブス〜色街の残照〜』のご案内
このnoteは、昭和の終わりから平成にかけてフィルムカメラで撮影された、掲題の娼街や歓楽街等の写真を展示するオンライン写真展です。デジタルでは得られないフィルム特有の味わい深い描写で、もう二度と見ることができない娼街の終幕の姿をご鑑賞下さい。
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展示写真
撮影情報
撮影時期:昭和63(1988)年7月、平成2(1990)年4月(★は平成2年4月撮影それ以外は昭和63年7月撮影)
撮影箇所:東京都葛飾区・鳩の街
収録枚数:18枚
収録サイズ:長辺2,000ピクセル
沿革・鳩の街
玉の井から枝分かれした集娼街の一つ。戦中は産業戦士向け慰安所であった玉の井は、昭和20年3月10日の空襲で焼失。警察当局から復興するよう要望され、空襲を免れた家屋を探すことになった。
改正道路(水戸街道)沿いの寺島町1丁目(現・東向島1丁目の一部)に焼け残っていた、元俳優・沢村長十郎(沢村訥子とも)所有の41戸が候補先となった。空襲から70日目の5月19日に5軒で再開した。
再開後、風紀上・教育上の理由から周辺住人の反対騒ぎとなったが、なし崩し的に業者は増え、敗戦直後には23軒にまで増加した。
敗戦後、R.A.A.による進駐軍向け性的慰安施設の整備が進んでいたが、東京方面10万の将兵をR.A.A.一手で到底賄うことはできず、溢れるべくして溢れた米兵8名が同年9月5日、午後9時前後に警視庁の通訳を伴い、当地に来訪した。
大きな混乱は発生せず、接した娼婦も「いまだかつて経験が無いほど鄭重なもの。一晩で恐怖心や憎悪が消えてしまった」と漏らした。
これは、その後に訪れる進駐軍需要を先読みして、業者・娼婦が進駐軍におもねった発言ともとれるが、日本人男性の交接1回5円のところ、20倍の価格100円で売買が成立したことも、娼婦に好印象をもたらした一因であろう。
同年10月には「進駐軍の慰安」を名目に、警視庁から拡張が認められ、業者5軒、娼婦12名でスタートした5月から飛躍的に拡大し、業者96軒、娼婦230人にまで膨れあがった。
再開当初は、由来元に倣って「玉の井」と名乗っていたが、進駐軍将兵を相手とするようになってから、「Pigion Street」と命名。オフ・リミッツ後は和名の「鳩の街」と称した。
こうして新興の集娼街、鳩の街は戦後を代表する赤線へと成長した。
当時のレジャー紙『内外タイムス』は、「本家玉の井をしのぐ(中略)新宿二丁目と並ぶ近代的」な娼家と紹介し、街歩き・食べ歩きライターの草分けであるイラストレーター六浦光雄は、都内の色街風俗も多く書き残しているが、「吉原、新宿、玉の井と歩いてみて、やはり美人がいるのは鳩の街」と感想を漏らしている。(解説文・渡辺豪〈note〉)
参考資料
『赤線 1958/S33』(通販ページ)
免責事項
遊廓、赤線、青線などの記載は歴史的正確性を保証するものではありません。
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