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夜をぶっとばせ!

先日、突然訃報を聞いた。大切な人が亡くなることは、いくつになっても悲しい。覚悟をしていても突然の訃報は、がっくりくるし、もっとこうできた、あ〜できたと過去を後悔してもはじまらない、ありきたりだが巻き戻せない時間を呪うしかない。けれどいつまでも悲しみに浸っていられない自分は、いつからか人の死に対してこうも思うようになった。

死は自分が死んだと意識するから死なのであり、生きていると思い続ける限り死はない。

詭弁であることは重々承知だけれど、人の出会いと別れとはこういうものなのではないだろうか。僕たちは大切な人と四六時中一緒にいるわけではないし、もちろん会っていない時間だって、その人はそこに存在し、もっというと自分の心の中に想い続ける限り生き続けるものではなかろうか。

生きている人とも何千回、何万回の出会いと別れを繰り返し、もう会わなくなった人も数知れず。だとしたら、その人達は存在として生きているといえるのだろうか?それよりも大切なのは、その人を心に留めて感謝し毎日を丁寧にきっと過ごすことなのだろうなと想いながら、その人の好きだったデビッドボウイのTin machineを聴きながらこれを書いている。「藤原さ〜ん、これ最高やねん〜今度ライブいこうや〜」というその人の弾ける笑顔が今も目に浮かぶ。やっぱかっこいいねTin Machine。

昔は、こういう死に直面したり、別れを経験すると、そこになんらかの意味を見出そうと必死になっていた。何か意味があるはずだ、意味なくこんなこと起こるわけがないと納得させ、自分を「意味」という呪縛でがんじがらめにし、いつしか「意味」のないことは、それこそ「意味がない」とばかりに意味のあることをやろうとしたあげく、つまらない人生を送ってきた時間のなんと多いことだろう。

動物の中で意味を見出さないと何もできないというのは「人間」だけ。そういうことだ。

「バースト・ゾーンー爆裂地区」という2005年くらいの名作があって

「テロリンを殺せ!」ラジオからは戦意高揚のメッセージが四六時中流れ出す。テロリンっぽい子どもをいじめるテロリンごっこが流行する。テロリンっぽい行動をした奴は民衆のリンチでぶち殺される。いつ終わるともわからぬテロリストの襲撃に、民衆は疲弊し、次第に狂気の度合いを高めていった。肉体労働者の椹木武は病気の妻子を養うため、愛人を買春宿で働かせて稼ぎを搾取していた。小柳寛子は椹木のために、狂った客たちに弄ばれ続けていた。やぶ医者の斎藤良介は、今日も手術に失敗して一人を殺した。麻薬密売人の土門仁は浮浪者たちを薬漬けにしていた。素人画家の井筒俊夫は、売春宿で抱いた小柳のあとを尾け回していた。そして遂に最大級のテロが発生した。国家はテロリン殲滅の大号令を出し、地上最強の武器「神充」を確保せんと、大陸にある「地区」へ志願兵を送り込んだ。椹木、小柳、斎藤、土門、井筒、五人はそれぞれの思惑から「地区」へと向かう。しかし「地区」で待ち受けていたのは...超極限状況下における人間の生と死を、美しくかつグロテスクに綴る、芥川賞受賞作家渾身の破壊文学。

簡単にいうと「神充」という牛に似た怪物に管を問答無用に脳天に突き立てられて次々と脳を吸われて人を殺していくSF小説なのだけど、神充が脳を吸う理由が頭の中で絶えず意味を考え、意味のない世界では生きられない人類の生態が気持ち悪くて仕方ないから。他の生物は生きていくことに意味など一切見出さない。しかしこの世界に生きていく意味を見出すことが、人類が人類たらしめている本質なのだという、結構読むのがきつい小説だ。

だから誤解をおそれずにいうと、コロナ禍になって、「不要不急」で外出しないでねと言われた方が、そこに意味ができて人は過ごしやすいのだ。動いたとしても「これは必要だからね」「これは急ぎだからね」と意味づけして動ける。ワクチンができたら、オリンピックまでには、きっといつかは終息するという希望的観測を意味づけて「今は我慢」と耐えることもできたりする。

それが人間の強さでもあり弱さでもある。

人は必ず生まれてまた死んでいく。とするならばその人生は楽しみにあふれた遊びの人生にしたほうがいい。最高に面白い暇つぶしをみつけて、熱中して取り組むほうがいい。面白くないことに意味づけをして絶えている時間は僕らには、きっとない。

あの人はこれからも続くこの時代を、いまどう見てるのだろう。

コロナがあけたらと考えずに、全体の自然の流れの中でそこを受け入れて委ねてみる。夜をどうせ歩くなら、夜道を楽しく歌いながら歩いて「レッツナイトスペンドトゥギャザー」で夜をぶっとばすくらいに楽しんで、その中できっとまた明るい朝もくるのだろう。そこの場所が、例えば今が、夜でも朝でも、直接的に人に触れて、関与できて、出会って、別れて、遊んで、仕事して、失敗も成功もしながら、馬鹿騒ぎを繰り返し、その中で次の何かをその次の人たちに渡していく。そんな状況が大切な人には、きっと羨ましく映るに違いない。大丈夫、きっとその景色まで一緒につれていく。

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