天国酒場バナー

第1回 橋本屋──自然と自分の境界が曖昧になる飯能の川床|パリッコ

☆NEWS!
本連載が単行本になりました。連載時には掲載できなかった写真を多数追加収録、読むだけでほろ酔い、夢見心地の旅気分が味わえる、書籍ならではの充実の一冊です! 
2020年9月25日(金)発売。四六判並製、184ページ、オールカラー。定価:本体1600円+税。全国書店様にてお求めください!

「天国酒場」とは?

整備された観光地というわけではない、なんでもない川沿いや、公園の中、池のほとりなどに、ぽつんと一軒、味わい深い茶屋が建っていたりする。入ってみると、広々とした水辺の風景をひとりじめしながら、おでんをつまみにカップ酒が飲めたりする。そんな「日常の隣にある非日常」ともいえる店の存在に気づき、探しはじめてみると、意外なほどにあちこちに見つかるもので、そういう店を「天国酒場」と名付け、巡り、写真やメモに記録することが、いつしかライフワーク(少し大げさかもしれないけれど)となっていった。 普段、何気なく過ごしていると見落としてしまう。だけど一歩入り口を入れば、そこには天国のような空間が広がっていて、夢心地に酔うことができる。そんな天国酒場を、この連載で紹介していきたいと思います。

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 近年、埼玉県の飯能市周辺がなんだかにぎやかなことになっている。
 北欧をテーマにしたショップやアトラクションが揃う「メッツァビレッジ」と、日本初のムーミンテーマパーク「ムーミンバレーパーク」がオープンし、飯能駅舎もリニューアル。駅名表示板には(ムーミンバレーパーク最寄駅)なんて表記がプラスされた。入間川沿いに「CARVAAN」という小洒落たブルワリーレストランができたという噂も聞いた。
 しかしながら、僕のような根っからの西武池袋線沿線民にとって、飯能は昔から、川遊びとバーベキューの街。駅から数分も歩けば水の透きとおる清流が流れ、大自然の景観が広がる。特に「飯能河原」エリアはアウトドアレジャーのメッカで、子供の頃からよく遊びに行ったものだ。

 ところが、駅方面から飯能河原をさらに少し超えた場所に「橋本屋」という天国酒場があることを知ったのは、つい数年前のこと。何度も訪れたエリアだし、位置的に視界に入ってもいたはずなので、子供心に興味をそそられるような外観の店ではなかったということだろう。
 が、重度の酒好きに成長し、渋い酒場の味わいを愛するようになり、やがて出会った橋本屋の圧倒的な佇まいに感動した日のことは、昨日のことのように覚えている。川面にせり出すようにそびえ立つ、2階建ての建物。それを飾るのは、すべて大将が手書きしたという達筆な看板の数々。縦長の店内は畳敷きの座敷になっていて、小さなテーブルが行儀よく並び、川に向かって全面が窓。水面で反射した光がキラキラと照らす店内は、冬場に窓を開けていても汗ばむくらいの暖かさだ。

橋本屋6

この圧倒的な存在感! 


橋本屋1

なんと温かい空間だろうか

 創業は約70年前。今より娯楽の少なかった時代、川遊びのベース基地として開店したのだろうが、酒やつまみも出してくれるのがありがたい。さらにありがたいのは、季節を問わず通年営業してくれているという点。夏はもちろん、四季を通じて目の前に広がる絶景を楽しみながら酒を飲むことができるというわけだ。

 美人で話好きの女将さんが、まるで親戚の家にでもやってきたかのようにあれこれと世話を焼いてくれる。無理を言い、雑誌やTVなどで何度か紹介させてもらったことがあり、遊びにいくたびに丁寧にお礼を言ってもらうのが、なんだか恐縮してしまうのだけど。
 奥の厨房はご主人の場所で、その寡黙な仕事ぶりに毎度ほれぼれしたものだが、大変残念なことに、昨年亡くなられてしまった。それでもしばらくして店は再開し、その後訪れた時に女将さんは「しばらくは毎日泣いて暮らしたのよ。だけどさ、私がやれるうちはやめないで続けようと思ってね」と笑顔で話してくれた。
 そういう事情だから、ご主人が長年継ぎ足し続けてきた、真っ黒でしょっぱくて最高に酒に合う「烏賊の煮つけ」と「蒟蒻の煮つけ」はなくなってしまったし、出せる料理も限られているそうだが、この空間で飲めるだけでもじゅうぶんだし、ご主人の残した達筆メニューはそのままだ。

画像5

亡きご主人手書きのメニュー

橋本屋2

かつて供されていた「蒟蒻の煮つけ」は最高の酒のつまみだった

 のんびりと飲んでほろ酔いになったところで、客席がまばらであれば、窓を開け、ざぶとんを枕にごろりと横になる。涼しい風がほほをなで、聞こえるのは川のせせらぎ、木々のざわめき、鳥の声。「なんとマナー知らずな」と思われるかもしれないが、これは女将さんも推奨するここでの過ごしかたなのだ。そんな店が、他にどれだけあるだろうか。

 以前女将さんがこんなことを言っていた。
「この前、日光まで紅葉を見にいってきたんだけどね、帰ってから窓の外を見て気がついたのよ。わざわざ遠くに出かけなくても、ここの景色が一番だって」
 人生の中でそんな場所を持てることが羨ましいなと思いつつ、僕はただ、いっときでもその場所をお借りできる喜びを噛みしめるばかりだ。

橋本屋5

眼下の川を眺めながらラーメンをすすれば、締めるどころかますます酒が進んでしまう……

橋本屋
住所 埼玉県飯能市大字飯能271
電話 042-972-5021