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アテンド業の草分けが語る、知られざる準備期間と前職の話|『性転師』刊行イベントレポ 2/2

『性転師』は、タイでの性別適合手術を仲介・斡旋するアテンド業に迫り、日本の性別適合手術を受ける人たちが置かれている状況を明らかにしようとした著作です。このイベントでは、性転師・坂田洋介さんをお招きして、坂田さんがアテンド業に携わるようになった経緯をはじめ、タイの病院との間柄、前職のアパレル業との意外な接点などが語られるうち、アテンド業という仕事の奥行きが見えてきました。

本記事では、そのイベントの様子をレポート。後編は、坂田さんがヤンヒー病院と出会ってから、性別適合手術の現場へかかわりを深めていくさまに自社「アクアビューティ」の業蹟もたどりながら迫ります。話題は前職のアパレル業にさかのぼり、坂田さんの仕事を結ぶ一筋の線が見えてきました。

※7月19日午後4時より、ジュンク堂書店 難波店にて、『性転師』著者の伊藤元輝さんのトークイベントがあります。入場無料。詳細は以下リンクで。

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(前半はこちら

タイ・ヤンヒー病院との出会い

竹田:坂田さんと、性別適合手術を多く行うタイのヤンヒー病院との出会いが面白いというか、そのあたりについて少し聞かせてもらってもいいですか。

坂田:私はもともとアパレル関係の仕事をずっとやってまして。当時タイのものづくりを日本へ持ちかえっていたんですね。その関係でしょっちゅうタイには行ってたんですよね。で、近くの飲み屋に行ったりするとタイの女の子が居て、みんな綺麗なんですね。でもよくみたら何かしてるみたいな感じやなと思って、聞いたらすぐ言うわけです。私鼻入れたよーとか胸こんなよーとか。それで、ところでどれくらい? と聞いたらいくらいくらと言うわけですよ。タイで一番の病院で受けましたよー言うわけね。それはもう1人2人じゃなくて、聞いたらほとんどの人がヤンヒー病院って言うわけ。

竹田:それは2000年くらいでしたっけ?

坂田:2000年の前くらいだね。実際に動き出したのは2000年から。で、これは面白いなと。ちょうどその頃バブルも終わったあとで私が作ってた高い服とかもあんまり売れんようになって変わりだしたころで。

竹田:いわゆるファストファッションがいよいよ台頭してきころですよね。

坂田:やっぱりアパレルもこのままじゃっていう。そんなときにちょうどヤンヒー病院の話がありました。問い合わせたらわりと快くその時の担当者が、日本からもお客さんが欲しいと思っていたと言ってくれて、連れてくるようにしてくださいとなった。  
それから本格的に始める2002年までの2年間は、2年間で10回以上タイの病院に行って、ホームぺージをつくるために街で色んな取材をしたりしていました。夜の街でニューハーフに聞いたら、これもヤンヒー病院でやってると。もともとは美容で考えてたわけですよ。んで彼女達を、体、顔とか、もちろん局部もお写真撮らせてもらったりしてね。そうやって言ってこられた方にこういうかたちになりますよというのを、資料として用意した。やってるうちに、今度は当事者の方がタイのヤンヒーって性転換の手術できるんでしょと連絡をしてきて。そっからは本を買ったり必死になって勉強しました。で、やっぱり一番彼らと付き合いのある精神科の先生ときちっと話をしようということで。

竹田:どういうふうに話を聞いたんですか? こういうビジネスをやっても問題ないかというふうに?

坂田:精神科の先生は性同一性障害の診断書はくれるわけです。かたやタイの病院は法に則った手術の推薦状がなければできない。その推薦状の雛型の書類をくれとヤンヒー側に言ってもらいました。その雛形を持って日本中の先生に話をしに行ったわけです。
「先生が推薦状が書いてくれないから当事者の方が非常に困ってるんで、先生何とか協力して書いてくれませんかと、ついてはこういう書類あるんでこれで何とかやってくれませんか」と言ったら、「そんな訳のわからんブローカーみたいな人間にそんなことできるわけないやろ、帰れ!」って言われてね、帰ったけど次の日また資料持っていってその先生のとこ行って、「先生ね、患者助けるためやったら手術するしかそれよりないじゃないですかって」って言って。そういうの何件もあったんですよ。いま日本にある推薦状はその時に私が持っていったものだと思います。

竹田:それはすごい…。

坂田:お付き合いしている先生方は、けっこう私を信用してくれていると思う。はじめは自分でもおかしなことやっているとわかっていたんですよね(笑)。だけどやっぱり正当にやりたい。
最終的にはヤンヒーから先生を呼んで日本でセミナーを開いてですね、日本のお医者さんも招待して、うちはこういうことをやってるというのをわかってもらったと。それから三回か四回はやってますね。熱心に見てもらって、セミナーの後の懇親会とかでは直接やりとりもしていましたね。そういうふうなルートを作っていったという自負はあります。
今は精神科の先生から手術を受ける方をうちに紹介してもらったりしてるケースも多いです。

「アクアビューティ」の業跡

───坂田さんのアテンド業の波のようなものをグラフにさせていただきました。坂田さんが運営されている「アクアビューティ」の顧客数の推移、2002 年から2020年までの数値ですね。

坂田さんの美容整形部門の事業「アクアビューティ」の顧客数の推移

坂田: 2002年にスタートしたころ、8月くらいからスタートだったんで少ないし、まだ認知度ゼロだった。はじめは美容整形の方が何名かポロポロっていらっしゃって、それからFtMの方が来だした。月間30人くらいになるときもありましたね、ピークのときは。

竹田:(グラフを示して)グーっと伸びてますね、2004年くらいから。

坂田:この年から戸籍変更ができるようになって、ものすごいたくさんの方がうちに来るようになったんですね(2004年に「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」が施行され、特定の要件を満たせば法的性別を移行できるように。)。さらに2007年に和田(耕治)先生という方が亡くなって、埼玉医大も(原科孝雄教授が退官し)手術ができなくなっている。

伊藤:和田先生というのは、『ペニスカッター』などの本に詳しいですが、関西を中心に性転換手術を600例ほど手掛けたとされる、(当時「ヤミ手術」だった)性別適合手術の第一人者の方ですね。つまり2007年に、埼玉医大と和田先生の両方のラインが途絶えてしまい、日本国内で手術を受けられなくなった方がアクアビューティを利用したとみられると。実際に数字はかなり伸びていますね。

坂田:ただ、(アクアビューティは)3、4回トラブルを経験してますね。まずタイに洪水がありました、2014年。ヤンヒー病院の前が、川になってしまって。船着き場で入口までやって来る人を運ぶんです。このときうちもお客さんをもってたんで、タイにいて帰れない人、日本から来れない人いました。タイの航空会社は補償しないんですね。滞在中のホテル代も一ヶ月くらいは全部うちで出して。

タイ洪水で川のようになったヤンヒー病院の前。患者を移送している

───かなりの費用になったんじゃないですか。

坂田:そりゃあ何百万円単位で。タイで軍事クーデターがあったときも、予定通りに飛行機が飛ばないので、代わりの飛行機をうちで取りました。

───それって負担しなければならないものなんですか?

坂田:無いかもわからないけれども、お客さんから一度お金をもらった以上これはもう仕方ないと思ってます。海外で手術をやるというのはやっぱりリスクもあるし、怖いと。それを安心してもらうためなら、ほかに一切費用取りませんよということを約束してる。
ただ今のコロナの現状だと、仮にタイに行く前にPCR検査をするとしてその費用、タイに着いてから隔離期間の2週間をとるということでその滞在費用を持てるかということになると……。

伊藤:それほど緊急で行くのを希望するんだったらという話ですよね。

坂田:もし今行くんだったら、その分は負担してくださいと言おう思ってます。

コロナ禍で揺れる対応

竹田:コロナ禍の直後はどういう対応だったんですか?

坂田:まずはタイの病院が順次受け入れをストップしましたね。3月末で最後の病院がストップして、その前に1人だけ滑り込みでどうしてもという方がいたんで、うちでやりました。そっからは今日までまったくゼロです。

伊藤:再開の目処はたっているんですか?

坂田:7月からは少しは動き出すっていう話なんですけどね。ただやっぱり検査がついてまわるだろうし、飛行機代がすごく高くなると思います。ふつう7~8万でいけるんですが、たぶん20万越えるんですよ。でもすでに契約してる人は、自分でまた取れるかっていったら取れないから、うちで持ち出しでしてます。※

竹田:伊藤さん、日本国内の手術の状況も伝えてもらってもいいですか?

伊藤:性同一性障害学会認定の病院の一部に電話で取材しました。日本では5月の手術予定がキャンセルになってしまい、一年以上待ってようやくその日がやってきたという人たちが、宙ぶらりんの状態になってしまって……徐々に6月からは再開できるみたいなんですけれども。

竹田:4月はまだ手術ができたんですか?

伊藤:4月はまだぎりぎりできていたみたいです。とくに、手術のできる病院が限られているなかで、県外をまたぐ移動もできなくなるわけなんですよね。たとえば岡山大付属病院とかだと、関西から来る人が多いんです。そうするとそういう人はキャンセルになってしまう。次の予約の目処も立たない。予約はもう埋まっているわけですから、全部をずらすわけにもいかない、という不運に見舞われた方もいらっしゃるという……。

竹田:手術だけじゃなく、ホルモン製剤のほうも……

坂田:個人的に、輸入でやってる人。これがもう、全部止まってるわけですよ。だから非常に困ってるというかね。ホルモンって手術受ける前だけじゃなく、受けた方も一生やる必要があるわけですよ。政府とか他の対策、まったくないと思います。(当事者は)ほんとはものすごく困ってると思いますよ。

※7月中旬現在、8月に再開できる可能性がでてきている。PCR検査等諸条件あり。

トラサルディのジーンズで一世風靡

───ここで坂田さんがアテンド業を始められる前のアパレル業時代の話をお聞かせください。本日は現物も持ってきてもらっています。ちょっと私達より前の世代の方であればみな知っているという、ファッションブランド「トラサルディ」「イヴサンローラン」のジーンズなどです。

坂田:30過ぎにアパレル会社を辞めて、企画会社をつくりました。当時の(トラサルディの)ライセンス(契約)ってね、紳士服、レディース、カジュアル、靴下と細かく分けられてるんです。そんなかでジーンズカジュアル部門をやりましょうとなった。とにかくやるからには徹底してね。トラサルディってもともと手袋屋さんなんですよ。だったらジーンズが一番しっくりくるやろうと。
まずいちばんはシルエット、脚の短い俺でもいちばんかっこよく見える、日本人に合うもの作ったろ思って作った。それと50メートル100メートル離れてもわかるもん作ったろうと、刺繍で目立つようにボンと名前入れたわけですよ。
ひとつのブームにするためには、ステータスもなけりゃいけない。当時ミナミで遊んでる知り合いの男の子女の子にね、このジーンズを履かせて「マハラジャ」に行ってもらった。マハラジャは当時ジーンズ禁止やったんです。

坂田さんがこだわるバックポケットの刺繍。これはマジェスティックのもの

竹田:「マハラジャ」っていうのは六本木にあった有名なディスコですよね。

坂田:そこにこれを履いて行きなさいと。断られたら「お前田舎もんか」とその子たちに言わせる。「トラサルディ知らんのか」と。何人か行かせたんです。そしたら先方もやっぱええもんやと思うようになるわけです。今度はその子たちに「なんぼか知ってんかー」と言わせる。「2万円」と答えさせる。そのとき普通のジーンズは3800円とかだったんですね。そのくらい、いいもんですよということを知らしめる。そしたら(マハラジャにトラサルディのジーンズで)入れるようになったんですよ。そうなったらみんな欲しくなるわけじゃないですか。
大阪でも一、二を争うインポートのいいものを置いてる店に行って置いてくれと説得をした。マハラジャの効果もあって、みんなそこにぶわー買いに行くわけですよ。そのあと大阪中が盛り上がってしまって。

───そしてこちらがイヴサンローランですね。

坂田:刺繍入れてちょっと上品にしました。他のメーカーとはまったく違う、いい素材、長持ちする素材を使って。これもけっこう評価はいただきましたね。日本人の体型に合わせた、立体的に作った服やったと思います。

伊藤:これでうまくいって、独自のブランドを。

坂田:トラサルディは比較的自由にやらせてもらいましたが、それでも向こうからこれを作りなさいと来るわけです。8割くらい向こうの、2割くらいが私のとこのデザイン。ところが、彼らは日本のマーケットを知らへんから、売上の8割を2割の私のデザインが占めている。でも、トラサルディでやれるもんはジーンズとトレーナーとTシャツぐらいしかなかったんで、これは面白くないなと。で、オリジナル作りたいなと思って、マジェスティックっていうブランドを新たに打ち出した。ものすごい派手なね、それこそ100メートル離れてもわかるような、私このデザイン全部いちから刺繍の色ぎめからつくって、一世を風靡しました。

坂田さんのブランド「マジェスティック」のトップス

竹田:いいですね。いまこれ僕欲しいですよ。

坂田:前も後ろも刺繍入れてる、なかなかここまでコストかけたことできないし、この素材自体もね、10年20年着ても平気で、ほんともう凝りました。着た人の満足度は高かったと思います。このテープ自体スエードに見えるんだけど、焼型を押した特殊なクラレの素材でね。20年30年経って洗濯してもこうなんですよ。
まま、そういう楽しい思いはしたんですけども……

───アパレル業を畳んで、アテンド業へ移ったんですよね。

廃業のきっかけはロンブーの一声

坂田:アパレル自体は好調だったんですけどね。一つには、付き合っていた卸の会社と製造業者がアパレル部門を畳んだので、行き場がなくなった。で、大阪の心斎橋で言ってもね、6店くらいメンズなんかの高いものを置く専門店が次々なくなっていった。1990年代の終わりですね。もうどんどこどんどこSPA(製造小売業:ユニクロのように卸しをせず、自社製品を自前の小売店で販売する企業。)に替わっていった時代でした。
で、さっきのヤンヒーの話とつながるんですけど。止めようと思った決定打がもうひとつあって。
テレビをみてたときに、街頭番組で私のマジェスティックの派手なトレーナーをお兄さんが着て歩いてたんですよね。そしたら番組に出ていた、ロンドンブーツ(1号2号)のどちらかが、「マジェスティック、いまごろ着てんのダッサー!」っていう話をしたわけですよ。それを見て、服っていくら思い入れ込めて作っても、いつかは脱いで去られるもんや、と思いました。まあある意味では虚しいなと。ちょうどそのとき美容整形ね。その人がものすごい不細工な顔してても綺麗になる、一生その人のもん、それも一つのライフデザインかなと。

竹田:同じデザインだと思ったんですね。

坂田:たしかに儲かるのは服なんですね。1本2万円のものが1万本売れたらすごい金額じゃないですか。アテンド業は1人80万とか100万200万くらいの金額もらって、一人にとってはものすごい大きな金額だけど、コツコツ積み重ねていかなきゃいけない。でも、それでも飯食えたらそれでいいと。これも穏やかでいいし、一人ずつきちっと向き合えて人間的な仕事かなと思ってね。

ある後輩デザイナーのこと

───いろんな時代を坂田さんは見てこられたという感じがするんですけれども、性別適合手術についても一つ次の時代が来つつあります。国内での手術にたいする保険適用の制度が整備されてきて、このアテンド業も、少しずつアパレル業のように仕事が減少していくだろうと、『性転師』にも書いてあります。

奥から司会、伊藤さん、坂田さん。

坂田:まったくその通りだと思います。日本でね、保険適用で手術ができるって言ったときに、もう辞めてもいいかなと思ったんです。

竹田:2018年ですね。

坂田:そう、2018年。実際ふたを開けてみたらまったく(保険が)機能してなかったから、まだ引き続きやってるんだけども。(※性別適合手術の前段階として必要とされている「ホルモン療法」が保険適用外のため、多くの場合、「混合診療」扱いとなり、性別適合手術も全額負担となってしまうことが制度上の欠陥として指摘されている)。
やがては機能するようになったら、私たちアテンド業は消える運命にあると思ってます。これは仕方ないことやと思ってる。もし必要であれば、このいまの性転換のビジネスっていうのは、何人か候補者はいるんですけれども引き継いでいきたいなと。ある程度飯食えるんであればね。そのあたりの見極めはちょっとコロナ終わってからじゃないとわからないなと。

竹田:お話を聞いていて、坂田さんをはじめとするアテンド業の方々が、ときにはタフなネゴシエーションを重ねられて、この20年間やってこられたんだと、改めて感じます。

坂田:アパレル時代けっこう周りにはですね、多かったんですね。デザイナーなんか言ったらわりとそういう人は多いし、実際私の部下のデザイナーで入ってきた男性がね、レディースやるときにデザインのセンスがすごくいいんですよ。僕はどっちかっていったら男から見た女の服描くんだけども、彼はどっちかっていったら私が着たらこんなかわいいんちゃうっていうラインで描くわけですね。おおすごいなってことは認めてたんだけど会社は辞めちゃってね、あるとき聞いたら京都でニューハーフのお店で働いてると。えーっとか言ってびっくりしてね。で、それからまもなくその元部下は自分で、亡くなっちゃったんですよ。そのときにもっと彼っていうか、中身知ってたら、もっと指導のしようもあったし引き出し方もあったん違うかなっていうのはその時から思ったんです。やっぱり人はみんな違うもんやから、人なりに、なんていうかな、自分らしく生きる方法、ちょっとでも助けできたらなと思ってるから一生懸命やってるつもりなんです。

竹田:話してくださってありがとうございます。伊藤さんの方からも何か最後にありますか?

伊藤:坂田さんはこの20年間という年月のあいだに、たくさんの当事者の方に会われてきて、さらに、アパレル時代には、いまお話にあったようなご経験もあって。そうした当事者たちとの出会いを背景に、この業界を切り拓いてこられたのだとお話を伺ってあらためて思いました。私も、坂田さんほどではもちろんありませんが、取材の中で、通ずるような気持ちをだんだんと感じるようになって、当事者でない者が、現場や当事者を知るようになる、その時々に感じるであろうことをこの本で伝えられたらと思っています。

坂田さんとお話をしていて普段から、直接的でない時も多いのですが、性転換ビジネスにかかわる思いが溢れるように感じられることがあるのですが、今日こうやって初めて聞くお話もあって、坂田さんの強い思いに改めて触れられたような気がします。きょうは本当にありがとうございました。


(構成・大槻宏樹)

伊藤元輝
1989年生まれ。共同通信記者。新卒時に大手証券会社の営業職に入社し、2か月で退職。半年ほどの充電期間を過ごし、記者として共同通信に入社。高松支局、大阪社会部を経て、現在神戸支局在籍。本書が初の著書。
坂田洋介
1949年生まれ、神戸市出身。株式会社「アイドマプランニング」代表取締役社長。元祖アテンド業者、性転師。元・ファッションデザイナーでもある。80年代よりトラサルディ、イヴサンローランのデザインを手がけ、その後自身のブランド「マジェスティック」を立ち上げた。2002年から一転、海外美容整形部門「アクアビューティ」を立ち上げ、性別適合手術の斡旋業を始める。

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