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亀の歩み稽古日記~血液と思い~

エネルギーを感じる、、、はて。
何が、誰が、それを感じているのだろう??

こんな問いが芽生えたのは、きっと稽古でYurabe師が、「痛み」の話をしていたからに違いない。
「痛がっているのは “私” でしょ?無限の私が痛がっている」と。そこから、骨、筋肉、神経、血液の関係性の仮説へ。かなり興味深かった、、けど頭がこんがらがってて書けまへん。。

何が、誰が、感じているのだろう?
私、が感じている…と思う。

「私」が感じている時というのは、「思い」が動いているのだよな、、

ところで “ 私 ”というと、私というフィルターやバイアスがかかっている、という解釈もある。それはどちらかというと、頭の中のイメージや思考の範囲のことを言うのだと思う。こちらはまるで、“ 有限なる私 ” のよう。

ここで言う “ 私 ” は無限の私。その私の思いは、カラダ全体と結びついている。(私というのはややこしくて謎が深いな)

“血液” は “思い” と近しい、と。思いを瞬時に反映するから。(例えば、緊張などで顔が真っ青になったり真っ赤になったり)
血液はカラダ中を満たし流れている、水の様に…。そこに眼差しを開花させるということなのかな、、カラダ全体と結びついた思いというのは。思いを寄せること、見ることで目覚めるカラダ。血液 (有限なるもの)と、私、思い (無限なるもの)との出会い。その場、カラダ。

今学んでいる踊りというのは、水のカラダが基本にある。水の動きは、思いと共にある。水のカラダとは、血液に目覚める事とも言えるのかなぁ、、、ざっくりしすぎてるけど、、

カラダ中の血液に目覚めた、その時の “私” は、きっと眼差しそのものなのだ… 。想像するだけでほら、血液がざわざわ蠢いている。

、、私が初めて由良部さんの踊りを見た時 「血を感じる 」と思ったのは、あながち変じゃないのかも知れない。

水のカラダは、思いと深く結ばれている。

そこには魅惑的な現象が起こる。エロス。

何故、無限が有限に現れているのか。私達の存在の大いなる謎。

有限に無限が “ 宿って ” いると。肉体に宿った私と、宿主のカラダ。その結び目を見つめていきたい。未知なる結び目を。

「 無限なるものと有限なるものが結ばれるところ……カラダ。 その結びつきを深めていこう 」

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